1月には、忘れられない出来事がある。
阪神淡路大震災。
すでに15年を数えることになったが、
原状復帰の意識も多くの人にはないそうだ。
それはそうだろう。
 
子どもたちに受験指導をしているが、
その中学生たちさえ、生まれた時の出来事だ。
私が生まれたときは戦後だいぶたってのことだが、
戦争は自分のずっと過去のように見えることは否めない。
この中学生たちからすれば、震災もそうなのだろうと思う。
まして、小学生とあっては。
 
その後も大きな地震や津波などがあり、
災害に人々は苦しめられてきた。
海外では規模の大きな被害がさらに数えられていく。
 
その度に、犠牲者が、
ただの「数」になってしまうような気がして切なくなる。
ひとりひとりでなく、単なる「数」にしかならないのだ。
生きた証しを、家族や知人が守ってくれるという例もあるが、
それさえもない人がたくさんいたはずだ。
 
他人が覚えている限りは、その人はまだ生きている、と
切実な訴えをした人がいたが、それは真実であろう。
だが、現実には、震災で、誰にも知られず死んだ人もいる。
その人は、生き残る術すらなかったというのだろうか。
哀しい。
 
だが、そうした事故で死んだ人が特別に罪深いわけではなかった、と
イエスは言っている。
罪は、どの人の問題でもあるわけで、
「ばち」でもないし、「因果」でもない。
 
私たちがもし神に匹敵するような存在になるならば、
もしかすると、
神に対して様々な疑問も呈したくなることだろう。
だが、平社員が社長に疑問をもつというのが場違いなように、
私たちが神の計画を左右しようだなどというのは、
身の程知らずであるには違いない。
 
同じ地に住む者として、
辛い人々に精一杯共感しながら生きていこう。
だがまた、天に突き抜けた光のエネルギーを受ける特権を与えられた私たちは、
希望という言葉が凍りついたものではないことを、
声を大にして叫びたい。
 
苦しい震災の中から立ち上がる声を
抑えつけるような圧力には、抵抗しよう。
その圧力が、自分の中にもあるということを認めて、抵抗しよう。
自分は善人だなどという顔をして笑うような真似は、よそう。
自己義認をしているうすらとんかちには、抗議しよう。
 
いのちを、つなぐために。
私もまた、生きていくために。
 
神のいのちの力を、受けるために。