人生にはいろいろなことがある。
試練だと感じることにも多く出会う。
 
しかし、自分に怒った都合の悪い出来事が、
自分への罰だという受け止め方もあるはずだ。
 
その悪い現実が、
乗り越えるべき試練であるのか、下された罰であるのか。
これは、判断が難しい。
また、その受け止め方が古来人の人生を決めてきた。
 
試練だとしてそれを超えていく精神力は、しばしば賞賛された。
罰だとして反省する精神は、しばしば尊敬された。
だが、そのどちらがどうであるというのは、
決定的な判別を許すものであるかどうか、分からない。
 
特に、その当事者には、分からない。
 
学校の教師の訓示が、
反省する必要のある者が聞くことなく、
反省する必要のない者が熱心に自分のこととして聞く例にあるように、
罰として受けなければならぬ当人が、えてして試練だと能天気に考え、
試練として祝福されている当人が、えてして罰だと項垂れる。
 
そんな現実も、ある。
 
表面上は、どうなのか、分からない。
神の下す措置は、たいていそうである。
だから、信仰が必要になる。
 
けれどもそうなると、
罰を受けながらも、信仰によって試練と見なす生き方が
義とされるのであるかどうか、分からない事態になる。
そんな強気の生き方こそが、信仰というものなのであろうか。
 
信仰は、いわゆる道徳と同一ではない。
だから、それで良いという考え方もある。
が、自己を神としながら試練だと受け止めて強く歩むのが
神に義とされるかというと、やはりそれは分からない。
 
人には、不思議に見えるものだ。