いろいろ悪いことをしてきて、人に迷惑をかけてきて、
あるところからいわゆる「更正」をして
今度は、悪いことをしている者を立ち直らせる働きを始める。
そういう話が聞かれることがある。
 
悪いことをしてきた者でなければ、
そういうことをしてしまう者の気持ちが分からない、
それもあるだろう。
そういう経験者の声ならば、
今道を外しているという人が耳を傾けることもあると思う。
 
病気の人でなければ
病気の人の痛みや苦しみが分からない、というのも本当だ。
心を開くのは、やはり「分かってくれる人」ということもあるだろう。
お高くとまって教えを垂れるような人のところに
帰っていくようなことは、たしかにないだろう。
 
尊い働きである。
人を助けるために知恵と労力を惜しまない務めは大切にすべきだ。
 
だが、それでまたオーライであろうか、というふうにも思う。
というのは、
その指導者が、自分の経験を次の人のために活かす、という中で、
だんだんと自分を絶対化していく危険があるからだ。
 
今度は、自分のやり方が正義の命題と化すことがあるのだ。
信念が悪いことはないのだが、
「こうなんだ」という断定が連続して押し切っていく。
 
私はこう信じる──それ自体が悪いとは思わない。
でもそこから、
だからこうしなければならない──と動いていくとき、
飛躍があるかもしれない。
その「ためらい」はあってもいい。
 
善いことであると認められ始めたら、
そのことが絶対化していく。
そこに歯止めがないとなると、
私は思うのだが、
ややフィールドが違うだけで、
その人の性向は、
悪の中に染まっていた時期と何も変わっていないのではないだろうか。
 
自分は間違っていない、という信念が
自分の考えを曲げない、そういう構造である。
 
自分としては、ひとつひとつの論理を積み重ねているつもりである。
そこから正しい結論を導いたとして自説を正しいと訴える。
だが、よく検討すれば、
その途中に論理の破綻というものがおそらく必ず含まれている。
人間が組み立てた神学でさえ、そういうものがあるのだから、
自説の正当化の中には、当然論理の成立していない部分があって然るべきなのだ。
過去の哲学の多様性が、それを証明している。
自分が自分で曲げないその理論も、
絶対的に正義であることは期待できないのである。
 
もちろん、それは私自身、自戒を怠ってはならないのだが、
クリスチャンでも、
自分が信じたら、自分の理解のままに
「こうなのだ」と強く決めてそれのみとしていく人がいるのは事実だ。
「~しなければならない」と言い始めるのだ。
 
けちをつけるつもりはない。
私がそのようにまた、自分の意見を絶対視しているではないか、と
そういう批判があればそれを否定するつもりもない。
だが、
神のメッセージは、いくらかメタな響きをもつことはあると思う。
人が自分のことを神のように振る舞うことについては、
疑問を投げかけていく機能は果たしていくことが
なされなければならない場合があると思う。
 
預言者気取りで自分がいい気になることを極力避けながら。