阿久根市の竹原信一市長の報道が続いている。
詳しいことは報道の中にあるのでここでは触れない。
 
懸念することがある。
この、自らを法よりも上位に置くとんでもない人間の影響である。
 
つまり、事情を深く考えている訳ではない人々は、
こんなふうに感じ始める可能性があるのだ。
「こんなにも揺るがず持論を曲げないということは、
 もしかすると、そちらの方が真実であるかもしれないのでは?」
 
自分が正しいという振る舞いにおいて全く揺るがないこの市長である。
嘘は百万回語れば真実となる、という一つの真理があるのだが、
だんだんと、この市長の「ある部分」だけを取り上げて
正義だ、と全面的に擁護する声が、増えてくる可能性があるのだ。
 
この市長、それを待っているはずである。
少しでも弱いところを示したら、
自分が犯罪者的に世に伝わる。
あくまでもこの責めは冤罪であるという「絵」を作らねばならぬ。
そのためには、いかなる抗議にも関わらない。
自分は常に法や習慣を超えて君臨しておかなければならない。
 
自分を神とするこの方法は、
独裁者が使う方法を参考にしていることが推測される。
だが、自分を神とすることは、
すでにその時点で、アウトなのだ。
 
自分には正当性がある。
そう。その主張は正しい。
およそ100%悪ということは、人間の目にはないからだ。
自分の主張に10%の正しさがあるとして主張し続けると、
だんだん、「この人も正しいのだ」という声が強まることが多い。
 
しかし、確信犯である故に、
この人は最後まで冤罪だと喚くであろう。
自分は法に支配されない、と突っぱねるだろう。
相手を情緒的と批判することで、
自分が情緒的な意見を味方にしていることを隠すことすら
この人にかけては正当でしかないのだ。
 
だから次は、この男を正義だなどと思い始めるかどうか、
一般の人々がテストされることになる。
 
言うまでもないが、
マスコミが断片的に報道した故に誤解が生じるというものではない。
本質的なものは、どこをどう切っても現れて出てしまうものなのだ。