原則という言葉がある。
どういう時に、使うだろうか。
「AはBであるのが原則」という具合に使うのではないか。
この言明は、次のことを含み、暗示する。
「AはBであるのが通常だが、例外としてBでない場合がありうる」
これが、日本語における「原則」の語の使用法である。
ところが、日本語で「原則」と訳す西欧の語は、
そのような使用法を許さない。
原則は原則であって、例外はない、とするのである。
だから日本人はいい加減なんだ、などと早合点してはならない。
こうした、言葉の理解の違いは、
福音の受け取り方の違いにつながることが必定である。
フロイスのように、対比するだけで終わるのも得策ではないし、
殊更に卑下する必要もないが、自らを誇る必要もない。
たしかに、西欧式だと融通が利かない。
すべてが規則ずくめで杓子定規であるのを日本人は好まない。
しかし、別の問題を感じとることもできるのではないだろうか。
原則は変わらない、とする考え方と、
原則は変わりうる、とする考え方。
ユダヤは中東であり、アジア文化の方に傾くものであろう。
そこで用いられた「律法」という考え方はどうだろうか。
やはり、変わらない方ではなかったか。
これに従うか従わないかというのは、
イスラエルを取り巻く帝国文化において
契約というものが根底にあったことにも関係しているだろう。
契約、つまり原則には従わなければならなかったし、
原則を破ったことは、違犯行為として罪や死をもたらしたのだ。
イエスは、なんとなく優しく、いわゆる罪人を助けたのではない。
律法と死との狭間で、剃刀の刃に触れるかのように、
言葉をぶつけ、また受けたのだ。
原則に従うか否かが生と死を振り分ける生活であったからこそ、
その死から救うことは偉大であったはずなのだ。
約束を守る、この簡単なルールが、
如何に日本では通用しないものなのか、
世の中を少し眺めればすぐに分かる。
ここに、聖書の原則をぶつけようというのだから、
どだい困難が伴うものである。
となると、半世紀前辺りの日本で
案外福音が受け容れられた現実があるのだが、
このころは原則をぶつけていることが多かったはずだ。
想定外の困難も、実は困難ではなかったというわけなのだろうか。
それを神の摂理と言ってこの議論を終わることもできるのだが、
もったいなくはないだろうか。
どういう時に、使うだろうか。
「AはBであるのが原則」という具合に使うのではないか。
この言明は、次のことを含み、暗示する。
「AはBであるのが通常だが、例外としてBでない場合がありうる」
これが、日本語における「原則」の語の使用法である。
ところが、日本語で「原則」と訳す西欧の語は、
そのような使用法を許さない。
原則は原則であって、例外はない、とするのである。
だから日本人はいい加減なんだ、などと早合点してはならない。
こうした、言葉の理解の違いは、
福音の受け取り方の違いにつながることが必定である。
フロイスのように、対比するだけで終わるのも得策ではないし、
殊更に卑下する必要もないが、自らを誇る必要もない。
たしかに、西欧式だと融通が利かない。
すべてが規則ずくめで杓子定規であるのを日本人は好まない。
しかし、別の問題を感じとることもできるのではないだろうか。
原則は変わらない、とする考え方と、
原則は変わりうる、とする考え方。
ユダヤは中東であり、アジア文化の方に傾くものであろう。
そこで用いられた「律法」という考え方はどうだろうか。
やはり、変わらない方ではなかったか。
これに従うか従わないかというのは、
イスラエルを取り巻く帝国文化において
契約というものが根底にあったことにも関係しているだろう。
契約、つまり原則には従わなければならなかったし、
原則を破ったことは、違犯行為として罪や死をもたらしたのだ。
イエスは、なんとなく優しく、いわゆる罪人を助けたのではない。
律法と死との狭間で、剃刀の刃に触れるかのように、
言葉をぶつけ、また受けたのだ。
原則に従うか否かが生と死を振り分ける生活であったからこそ、
その死から救うことは偉大であったはずなのだ。
約束を守る、この簡単なルールが、
如何に日本では通用しないものなのか、
世の中を少し眺めればすぐに分かる。
ここに、聖書の原則をぶつけようというのだから、
どだい困難が伴うものである。
となると、半世紀前辺りの日本で
案外福音が受け容れられた現実があるのだが、
このころは原則をぶつけていることが多かったはずだ。
想定外の困難も、実は困難ではなかったというわけなのだろうか。
それを神の摂理と言ってこの議論を終わることもできるのだが、
もったいなくはないだろうか。