読売新聞が23日に載せていた社説がふるっていた。
タイトルが「哲学教育 論理的な思考力を鍛えよう」ときた。
 
哲学という訳語の説明から入り、
十数年前のちょっとした哲学ブームを持ち出した。
しかし、哲学教育は海外では重要視されていると指摘し、
ユネスコが推進している事実を掲げる。
 
フランスの哲学教育を紹介し、フィンランドを持ち出す。
これは、近年教育界で注目されている国である。
東京の特例校で、哲学教育の試みがあることを示す。
大阪にも例があるという。
 
そして、晩秋の夜に哲学書を勧めて終わっている。
 
なかなかよい構成である。
哲学とは何ぞ、という点は読者は周知であるという前提があるから、
哲学そのものについての説明はない。
字数の中では無理だろう。
 
しかしこのようにまとめてみると、目立つ語がある。
「教育」である。
哲学はここで、教育のための手段として捉えられているのだ。
 
もちろん、哲学史を研究するというようなことが哲学ではない。
だが、哲学史の中でなされた議論は、深く練られた議論である。
私たちが少しばかり頭をひねったくらいで思いつくことは、
歴史の中でたいてい考えられている。
その人類の知的遺産を無視して、
少しばかり、根本的なテーマについて考える機会を提供したからと言って、
哲学的思考が身についたり、成立したりするわけではない。
 
人間は本来、自分の考えが唯一正当で真実であると信じて疑わないものである。
少なくとも、それに従って生きてきた自分という存在がここにある。
その自分が考え出すことが哲学だという権威をもつと、
ますますこれは自己正当化が盛んになる虞があるだろう。
 
また、教育というものが最終目的でもないのであって、
当然この新聞社は、国家の問題をその先に置いている。
となると、哲学という知的権威を復権させるような姿勢を見せて、
その哲学を利用して、ますます理論的にも強力な基盤を得て
次の目的のために奉仕させようという意図で動いていることになる。
 
しかし、そこまで心配することはあるまい。
この段階での哲学のススメが、成功することはないと思われるから。
人はそれほどにも、哲学たるものから遠ざかっている。
電車で読書をする者がこの十年で激減している。
本の売れ行きとその売れる本の内容もまたその路線であろう。
書店の減少もまた。
 
読書というものが、
ごく一部の人の高尚な趣味になってしまう可能性も高い。
子どもたちは、もうハリーポッターすら読めなくなっている。
少子化のように、気づけばもう遅いということに、なるだろう。
 
「考える」ことが、滅亡しようとしている。
自分は「考えている」つもりであるからなお、
扱いにくい世界になっていく。
 
これが杞憂でなくなれば、私は嬉しいのだが。