自分の考えだけを
ひたすら主張するタイプの人がいる。
相手が何をどう考えていようと、お構いなしだ。
これだと、折り合いがつかないのももちろんだが、
そもそも話し合いとか議論とかいうものが成立しない。
 
自分の言うことが
すべて肯定されて育てられてきたとしたら、
そういうことがあるのだろうか。
そればかりでもないだろう。
 
パウロの手紙は、時に自問自答している。
~だろうか、いや、そうではない。
それは、経験された数々の反論を踏まえているかもしれない。
手紙という、一方的な主張の手段においては、
そのように相手の反論を想定してかかることも必要である。
その想定がうまい人は、説得力をもつし、
逆に下手な人は、反感をもたれることになるものである。
 
さて、物事を説明するというのも、
この考え方は応用できると思われる。
これはこうである、とただ説明するだけでは、
相手が理解してくれるとは限らない。
相手が知っている事柄を想像して、
相手がこのような意味に受け取るかもしれないという推察をして、
いや実はそれとはこのように違うのだ、と比較対照をしながら
自分の説明したい事柄を際立たせる。
説明の基本は、そのようなものとなるだろう。
 
分かりやすい説明をすると言われる教師は、
意識的には無意識的にか、このようなことを理解している。
自分がどれだけ知っているか、だけで教師ができると思ったら違う。
ある事柄を、どのように相手が理解しやすく説明できるか、
それを試すことなしには、教師としての基本能力は分からないのである。
 
それは、スポーツの監督やコーチ、
会社の上司など、
人の上に立つ地位にある人に、必要な能力だと言えるだろう。
もちろん、教会の指導者にもそのまま言える。
神に、キリストに出会い、招かれた人であれば、
そのあたりの心配はまずいらない。
御霊の実は、知らず識らずこうしたことを教えてくださっていた結果なのである。