ピュアであることは、よいことだと普通考えられる。
信仰がピュアであるというのは、
真っ直ぐで、一心不乱で、
主に愛される生き方であるというのは、
聖書を読んでいて、誰もが感じることであるだろう。
 
けれどもまた、ピュアなままで
一生を送るということが可能であるとは思えない。
そんなに、人生が世捨てのままで終わるものではないし、
修道院に閉じこもるわけにもゆかない。
いや、おそらく、閉じこもればますます、
自分の中の不純なものとの戦いが激しくなるとも思われる。
 
問題なのは、
ピュアでありたいという願いそのものの中にある。
一滴の毒は、薄められるために、入ったことが見えなくなる。
当人は、ピュアなままであると信じてはいるものの、
確かに毒素は入り込む。
「そうかもしれない」などと何かを取り入れることにより、
いつの間にかその色に染まっていってしまうことがあるのだ。
白い紙は、わずかなものに汚れるであろう。
それを嫌がり常に磨いているという生き方も可能だろうが、
そうすると他と自分との関係が、見えなくなっていくのだ。
 
キリスト教を、修行のように捉える人もいる。
「ああ、いかんなあ」と思いつつ軽視するというのが
望ましくないことは、言うまでもない。
しかし、それに敏感なあまり、
自分の力で、つまり人間の力で、
それを改善することに努め始める生真面目さを、
ピュアな人はしばしばもっているものなのだ。
 
精進しなければならない。
努力しなければならない。
この自戒が、今度は、
努力していない人への裁きとなっていく。
こういうのは、ピュアの故にまた自分では分からない。
自分のことは、しょせん自分には見えないものなのだ。
 
あれほど自分に鞭打って精進していたように見えるパウロでさえ、
その手紙を詳しく読むといい、
とてもピュアとは言い難いほどに、自己中心的で、
時に相手を見下し、自分を誇り、
分からず屋と思った相手にはいやらしい皮肉を突きつけている。
いわば、ピュアではない。
 
だが、パウロはそのように聖人ではないのだが、
やはりピュアである。
自分が信じる福音一筋であり、ブレることはない。
それを貫き、道を逸れない。
パウロ自身が享楽に埋もれているとは思えないが、
パウロなりに、何か楽しむ生き方をしているように見えてならない。
 
ピュアとはまた、
すべて恵みとして受け止め、喜ぶというスタイルとして
理解することもできるのだ。
 
修行ではない。いわゆる精進でもない。
真面目一本槍の意味でしかないピュアさは、
一方でひどく危険なものであることを認識したい。