あなたは今日、パラダイスにいる。
 
聖書をお読みの方なら、どの箇所かピンとくるはず。
ルカ伝に描かれた、強盗の一人へのイエスの言葉。
光と闇の画家レンブラントは、
三本の十字架の中央のイエスと、
もうひとり右の十字架とを光で包んだ。
左の十字架は、闇の中に隠されたように描かれた。
 
自分を思い出してくれ、と
最後の最後で十字架のイエスに信頼の言葉を告げた強盗は、
たしかにその日、パラダイスに招き入れられたのだ。
 
人生の最期で回心すれば天国に入れるんだ。
そんな浅薄な理解が誤っていることは、言うまでもない。
でも、どうして誤っているのだろうか。
 
死ぬ間際にイエスに告白することが大切だ、と
ルカが伝えようとしたのでないことは明白である。
ルカは、死の間際と死後の世界とを関連させたのではない。
イエスに出会うことと、
出会ったその日に神の国に招き入れられている事実を告げたのだ。
 
出会う。
これが、信じる第一歩である。
 
私たちは、様々な出会いを経験する。
出会うとは何か。
私たちは、歌手と出会う。
実際に会うこと? いや、その曲を聴いたときに、出会うものだ。
私たちは、歴史上の人物と出会うことがある。
実際にではない。だが、本や資料、史跡を通じて、
まさにその人物と出会いを確かに経験する。
 
私たちは、実際に誰かと会っていながら、
出会ったとは考えないことがある。
どうしてだろうか。
 
出会うとは、ある人格と交わることにより、
自分が変えられるという構造を必ず内部に含む精神的事件である。
考え方や生き方に影響を受け、自分が変えられるという経験、
それなしには、出会ったという言い方を、しないものである。
 
だから、イエスに救われるというのは、
この出会いの経験が、必ず含まれることになる。
イエスの救いについて知識がある、ということではない。
いくら努力して知識を得ても、
出会いのない者が語る言葉には、いのちがない。
困ったことは、いのちがないのに、
自分ではこれが聖書の救いだ、と宣伝することである。
これは偽りであり、聖書が告げるかなり厳しい罪そのものである。
なにしろ、きれいに的を外しているのであるから。
 
出会いの神学といえば、ブルンナーが有名である。
私はまだ触れたことがない。
私自身はもう少し聖書信仰寄りだと思うが、
なにぶんよく知らないので、なんとも言えない。
ひとつ、課題ができたように思う。