先週スーパーマーケットの
レジで並んでいるときに経験したこと、二つ。
 
隣のレジが早く終わりそうに見えることが、よくある。
見ると、今レジにかかった人の後ろが、空いている。
私は、そちらのレジにスッと入った。
 
もちろん、割り込んだなどという意識があろうはずがない。
空いていたところに、うまく滑り込んだ、と思った。
それほどに、そこは確かに、空いているとしか思えなかった。
 
ところが、私が並んでいると、数秒後、
後ろから声が聞こえた。
「あーあ、ならんでいたんですけどねぇ~」
これ見よがしな、大きな声。
しかも、私に言っているというよりは、周りに訴えるような言い方。
中高生くらいの子がいるかのような、庶民的な女性であった。
 
たとえばレジに一度並んでいたとしても、
何か別の買い物を思い出して、そこから離れることがある。
私はそのレジに、その女性が並んでいるという意識が、まるでなかった。
ということは、要するにかなり空いていたのは事実なのだ。
しかし、その女性は自分では「きちんと」並んでいるつもりだったらしい。
「きちんと」した自分からすれば、私は割り込んだ悪者に違いなかった。
 
私は「はぁい」と言うしかなかったが、
その女性は当然のことのように、私の前に来て、レジ台に籠を置いた。
籠には商品が満載だった。
私は、手に商品を二つほど抱えただけだった。
 
もし私が逆の立場だったら、
自分が間を空けていたことに非を認めただろう。
しかも、相手が少ない商品であるのを見ると、
そのままただ後ろに並んでいたことだろうと思う。
もしどうしても訴えたい場合でも、その前に入ってきた人に対して、
「すみません。ここ、並んでいたんですが」のような言い方をしたことだろう。
 
その女性は、ついにこちらに目を向けることもなかった。
私に対して迷惑なことだ、と告げたわけではなかったようである。
自分は「きちんと」していたわけで、
悪者を訴えて周りに自分が被害者であるということを知らせ、
私を悪者だと非難し、とにかく自分が先にレジを済ませたかった
という思いだったのではないか、と推測する。
 
そうでないかもしれないが、そういう雰囲気であった。
ここは誤解して戴きたくないのだが、別に私は憤ったわけではない。
冷静に、その人の心の中を推察しているだけだった。
この人は、どういう気持ちでいるのだろうか、といろいろ想像していたのである。
 
別の日、別の店でのこと。
それは、私が出勤途中に立ち寄った店であった。
 
やはり私は、商品二つくらいしか手に抱えていなかった。
別に、時間がなくて焦っていたわけではない。
だから、そわそわしているふうには、決して見えないはずだった。
 
私の前に、籠いっぱいの買い物をしている女性がいた。
先般の女性より若干年上であろうかと思われた。
なんだか、後ろの私を気にしているのかな、と直感していたが、
自分の籠を置いた台がそこにあるにしても、そこから少し引くように離れて、
「お仕事でしょう? お先にどうぞ」と私の顔を見て言ってくれた。
 
あらあら、私は本当にゆったりしていたので、
いかにも急いでいるような態度ではなかったはずである。
つまり、この女性の全くの厚意から発された言葉なのであった。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。結構ですよ」
私は、にこにことした目でお答えした。
私は人込みではマスクをしているので、背一杯目でそれを伝えた。
もしかすると、このマスクのせいで、
具合が悪いと思われたのかもしれない。
しかしそれにしても、この女性の豊かな想像力に感服した。
 
お気持ちはありがたく受け止めたことをお伝えした。
それでも、急いでいませんのでどうぞお先に、と
そのままの順番でレジを済ませてもらった。
逆に、悪かったかな、とも思うほどであった。
 
こうして私は、レジにおける二つの出来事が重なってくるのを感じた。
この違いは、何なのだろう。
 
自分は「きちんと」している、という強い思いは、
きっと自分の姿を見えなくしているのだろうか。
見えていると自負するところに罪がある、というヨハネ9章の指摘を
見せられたような気がしたが、
これを人の振りの中で見出すなどというのが、
そもそもおかしいのかもしれない。
私が私の中にそれを見出していないというのは、
私が依然として私の姿をやはり見ることができていない、ということを
意味しているのではいなかと思われる。
 
だから、まずは良きことについて見えるようでありたいと願った。
この後者のケースの、譲ろうとしてくれた女性のように
近くにいる人が求めているものを理解するような心を持ちたいものだと思う。
近くの人を、人間としても認識していないような空気が世の中には多い。
そういった中で、親切を受けたこの経験は、
ちょっとした宝ものだな、と喜んでのであった。