新約聖書の場合には、
専らイエスの生涯とパウロの救いの論理などで占められているため、
歴史や事件といったことが綴られているわけではない。
使徒言行録というところが、一連の出来事を記している程度である。
 
ところが旧約聖書の場合は違う。
人間の歴史を通して、神がどう現れるかということを
真正面から捉えている。
 
新約が、宗教的であることは明らかなのだが、
旧約が、それ以上に宗教的であることが、
時に忘れられてしまっていることがあるかもしれない。
 
どういうことかというと、
旧約は歴史的事件を記録しているにも拘わらず、
それが常に宗教的視点で描かれている、ということである。
 
それはそれでよいのだが、
読者たる私たちが、そこに錯覚をしてしまう虞もあるということを
意識しておくことは悪くないと思われる。
 
たとえば、イスラエルの初代の王サウル。
聖絶とでもいうのか、すべて神に献げなければならない、
敵からの略奪物を、処分せずに財としてとっておいた。
このことで、サムエルの叱責を受ける。
主の戒めを破ったけしからん奴は、もう王でも何でもない、と。
こうしてサムエルとサウルとは決別し、サムエルはダビデに油を注ぎ王とする。
 
つまり、サウルは、神の戒めに従わなかったために、
王位を失い、悲劇的な最期を遂げる、というのが聖書の描写である。
これはよい教訓になる。
教会でもそのように語られるし、それは然るべき説教である。
 
だが、だが、である。
(続く)