聖書通読は、少ししなかった時期がある。
が、通読表なるスケジュールに従って、
一年間で聖書全体を読むのは幾度となくやった。
 
どうにも、名前が並ぶところは退屈で
面倒だなというふうに思え、
読み飛ばすことがままあった。
駆け抜ける時間の中で、
早く終わりたいという心理もあったのだろう。
 
今回の通読のとき、私は型をもった。
ドライヤーで髪を乾かしながら、読むのである。
しかも、赤シャーペン(大きな店にはある)で時折傍線を引きながら。
 
ドライヤーを使っている間、いわば暇である。
テレビを見ても声が聞こえない。
ならば、この一定の時間を、通読に使おうと考えたのだ。
 
不純な動機かもしれない。
だが、一切の雑音が消されて、
集中できることに気づいた。
おまけに、乾くまでは読めるのだから、
ゆっくり読むゆとりも生まれた。
カタカナの名前の羅列も、丁寧に読んでいく。
 
すると、新しい発見がある。
以前は、いわゆる心洗われる言葉に赤線を引いたが、今回は違う。
見落としがちな、ささやかな言い回しに気づいたときに、引くのだ。
いわば、隠れていた宝物を見つけたような場合である。
 
今回は新改訳聖書を使っているが、たとえば、
「豊富な水を見つけさせてたまるものか」(歴代誌二32:4)
「教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか」(コリント一6:4)
など、およそ希望の言葉にはならないようなところに、しっかり線を引く。
しかし前者からは、間違いなく福音説教が一つできると思う。
 
人が読んだ、あるいは善良なクリスチャンが
素直に喜ぶだけの、いかにも福音ですよという言葉には、
かなり毒がある場合が多いことも知った。
それをただ福音伝道ですよ、と掲げるのは、私の信には合わない。
 
穿った読み方、衒った読み方を推奨するわけではない。
だが要するに、
自分が神とどう出会うか、
自分が神からどういう声を聞くか、
そこが大切なところであると思う。
それを万人に押しつけるつもりはない。
ただ誰もが、そのようにして神の言葉を聞く必要があると思うのだ。
 
それが、福音のもたらす「いのち」である。
救われた者にしか分からない「いのち」である。