昨日の「喩え」は、
お粗末な私の例であった。
 
ところが、聖書にも喩えは多くある。
新約聖書にもあるが、
そこにあるのはすべてイエスの口を通して描かれている。
パウロなど、書簡の中には喩えはない。
 
福音書の中にふんだんにあることから、
これはイエス独特の宣教方法であったということになる。
あるいは、人間には真似のできないものであるが、
神の子にはできる、ということであろうか。
 
イエスの「喩え」は、新約聖書を解釈する人の中には、
分かりやすい喩えだった、とする人が多い。
弟子たちには奥義が与えられているが、民衆には喩えで語られた、という点である。
 
だが、時代が違う故にたとえが分かりにくい、ということはあるにしても、
現代これほど私たちが読み込んでも、
意味を解しにくい喩えというものがある。
ルカに特有のものの中には、難解なものもあるし、
善きサマリア人の喩えほど有名であっても、
弟、父、あるいは兄、
誰に焦点を当てるかによって、理解の仕方が違ってくると思われるのだ。
 
私は、そんなに「喩え」が容易に通じることはなかったと思う。
だから、民衆はイエスに、政治的メシア性を期待し続けたのである。
民衆がその「喩え」を理解したら、
民衆は弟子たち以上にイエスを理解して、イエスの救いを受けたはずである。
 
民衆はイエスを理解しなかった。
ということは、喩えも理解に届かなかった、ということになる。
喩えでしか語らない、とイエスが民衆に対して言ったのは、
喩えだけで分かる、という意味だとは思えない。
喩えであれこれ考えただけでは理解できない、ということなのだ。
 
だから、解き明かしが必要である。
だから、礼拝の説教が必要なのである。