信仰による義、という言葉がある。
プロテスタントの重要な概念である。
聖書に徹しようとするとき、
避けて通ることのできない考え方である。
原語からすると、「信仰」というより「信」である。
人間から神を、という方向においては「信仰」であるが、
神から人間を、という方向においてはそう呼びがたい。
だから、「信」でよいかと思う。
この「義」は、正義の「義」であるが、
道徳的な用語ではない。
むしろ、法律の用語である。
「義とされる」というのは、無罪を言い渡される、ということなのである。
そもそも考えてみれば、
ユダヤのこの背景は、律法であった。
聖書というものは、「律法」と言い換えられるのが
当時の常識であった。
あるいは、「律法」と「預言者」などという。
イエスは、律法主義と対決した。
そのイエスは、法律によって引き渡され(これも裁判用語)、
十字架につけられた。
イエスは、あくまでも律法に対してどうだという議論をしたのだし、
ローマの法律に従って死を迎えた。
その死は、ユダヤの律法による贖いを成し遂げた。
感情だけで信仰が保証されているわけではない。
そこには、人間の世界にもある法という手続きをモデルにした
厳しい正義の概念がある。
神と人間は、法を背景とする「契約」を結んだのだ。
だから、新「約」聖書などという。
これを弁えておくのが、福音理解には必要なのだ。
プロテスタントの重要な概念である。
聖書に徹しようとするとき、
避けて通ることのできない考え方である。
原語からすると、「信仰」というより「信」である。
人間から神を、という方向においては「信仰」であるが、
神から人間を、という方向においてはそう呼びがたい。
だから、「信」でよいかと思う。
この「義」は、正義の「義」であるが、
道徳的な用語ではない。
むしろ、法律の用語である。
「義とされる」というのは、無罪を言い渡される、ということなのである。
そもそも考えてみれば、
ユダヤのこの背景は、律法であった。
聖書というものは、「律法」と言い換えられるのが
当時の常識であった。
あるいは、「律法」と「預言者」などという。
イエスは、律法主義と対決した。
そのイエスは、法律によって引き渡され(これも裁判用語)、
十字架につけられた。
イエスは、あくまでも律法に対してどうだという議論をしたのだし、
ローマの法律に従って死を迎えた。
その死は、ユダヤの律法による贖いを成し遂げた。
感情だけで信仰が保証されているわけではない。
そこには、人間の世界にもある法という手続きをモデルにした
厳しい正義の概念がある。
神と人間は、法を背景とする「契約」を結んだのだ。
だから、新「約」聖書などという。
これを弁えておくのが、福音理解には必要なのだ。