福音は、「神から」の方向性をもつ。
これが常識である。
恵みは神から。
何事も、神から。
神からまず信頼が私たちにあり、
私たちがそれに応えて信仰をもつ。
神が主導権をもつ中で
私たちの生活や行動が決定されていく。
ところが、「神へ」の方向性を
勘違いしている人々やグループがある。
細かく言えば「神のため」を彼らはモットーとしている。
神のために私はどうすればよいか。
神のために何ができるか。
いつの間にか、実は私が主導権を握っている。
いかにもそれは信仰深いように見える。
立派な行いをするからだ。
新約聖書の中でも注意されているが、
救われるのは信仰によってであり、行いによってではない。
もちろん、
行いのない信仰は死んだものだ、という記述もある。
ルターはそれを毛嫌いしたのだが、
行いによって救われることが奨励されているとも言えないから、
普通それらは矛盾しているとは判断されない。
私はそういうグループに初めに触れた。
「神のために」彼らは非常に熱心であった。
だが、それは聖書に外れているとして私は離れた。
確かに、聖書を読めば読むほど、
それは聖書と違うことがはっきりしてくる。
それに、「神のために」が個人の領域で考えられている限り、
まだそれは一つの信仰であるとも言えるのだが、
教団や組織がそれをモットーにすると、怖いことになる。
それではまるで、「お国のために」を強要する
軍国主義と同じになってしまうのである。
ところが、その後私はまた、
とんでもない人物に出会うことになる。
「神から」でもない「神のため」でもない。
「自分のために神を利用する」人間である。
これがまた個人であるのならば、
個人の世界の出来事であり、
とやかく私が言うことではない、とも言えるのであるが、
この人物はこの世で「牧師」という地位に何故か就いていた。
「自分のために神を利用する牧師」である。
なんとおぞましいことであろう。
神を、聖書を、
自分のために利用しているわけで、
もちろんのこと、他人をも利用することになる。
このように記すと、一部の方々が心配してくださる。
人のことを悪く言ってはいけない。
神に任せればいい。
上に立てられた権威に従うべきである。
非難するとあなたの心が醜くなる。
どれも、親切心からであり、感謝したい。
だが、これは断じて言わなければならないことなのである。
その点、明日触れることにします。
これが常識である。
恵みは神から。
何事も、神から。
神からまず信頼が私たちにあり、
私たちがそれに応えて信仰をもつ。
神が主導権をもつ中で
私たちの生活や行動が決定されていく。
ところが、「神へ」の方向性を
勘違いしている人々やグループがある。
細かく言えば「神のため」を彼らはモットーとしている。
神のために私はどうすればよいか。
神のために何ができるか。
いつの間にか、実は私が主導権を握っている。
いかにもそれは信仰深いように見える。
立派な行いをするからだ。
新約聖書の中でも注意されているが、
救われるのは信仰によってであり、行いによってではない。
もちろん、
行いのない信仰は死んだものだ、という記述もある。
ルターはそれを毛嫌いしたのだが、
行いによって救われることが奨励されているとも言えないから、
普通それらは矛盾しているとは判断されない。
私はそういうグループに初めに触れた。
「神のために」彼らは非常に熱心であった。
だが、それは聖書に外れているとして私は離れた。
確かに、聖書を読めば読むほど、
それは聖書と違うことがはっきりしてくる。
それに、「神のために」が個人の領域で考えられている限り、
まだそれは一つの信仰であるとも言えるのだが、
教団や組織がそれをモットーにすると、怖いことになる。
それではまるで、「お国のために」を強要する
軍国主義と同じになってしまうのである。
ところが、その後私はまた、
とんでもない人物に出会うことになる。
「神から」でもない「神のため」でもない。
「自分のために神を利用する」人間である。
これがまた個人であるのならば、
個人の世界の出来事であり、
とやかく私が言うことではない、とも言えるのであるが、
この人物はこの世で「牧師」という地位に何故か就いていた。
「自分のために神を利用する牧師」である。
なんとおぞましいことであろう。
神を、聖書を、
自分のために利用しているわけで、
もちろんのこと、他人をも利用することになる。
このように記すと、一部の方々が心配してくださる。
人のことを悪く言ってはいけない。
神に任せればいい。
上に立てられた権威に従うべきである。
非難するとあなたの心が醜くなる。
どれも、親切心からであり、感謝したい。
だが、これは断じて言わなければならないことなのである。
その点、明日触れることにします。