国会中継を見ているとき思ったのだが、
あれほど与野党がけんか腰で論戦し、
相手を非難し続けているように見えるにしても、
実のところ、彼らは同じ土俵にいる仲間なのだ。
 
ある意味で、それは当然のことなのに、
表面上意見が対立し、敵対しているかのように、
見えていた自分が恥ずかしかった。
 
政治家は、同じ政治家のルールに則り、闘う仲間なのである。
同じゲームをプレイする仲間である。
たとえば私たちが、与党の政治家の意見にカチンときたとする。
それは私たちが野党であることを意味するものではない。
私たちが、政治家でないということを意味するだけなのである。
 
政治家グループの中にいる人々は、
立場が違い議論の矛先が異なっているにせよ、
政治家のルールで動くし、
そのルールがまた彼らの内部に隠れているのも当然である。
私たちの目に、彼らのルールが明示されているとは言えない。
ただ、たいていばれてしまっているかしれないけれども。
 
たとえ意見が対立している人でも、
そのうち同じ党になってしまうことがあるし、
互いに健闘をたたえ合うようなコメントも出す。
理解し合えることが少なくない。
 
教会というのも、一つの社会である。
教会世界に通じるルールというものがあるだろうし、
それに則っている限り、
意見が対立することがあっても、本来対話ができてしかるべきである。
実際、対話は成り立つのである。
 
しかし、それほど構える必要もない。
主は一つで信仰も一つだとする信徒の信の立場を理解したとき、
表に出す言葉が拙く伝わりづらいように見えたとしても、
霊は確かに通ずるものだ。
 
祈りのうちに願い出たことが、
それまで無縁であった教会にも、ぴたっと通ずる。
思った以上のよいお返事を聞かせて戴くことも当然ある。
 
だが悲しいことに、それとは逆のこともある。
言葉を尽くして説明しても、どうにも通じない教会もある。
学級崩壊のクラスの責任は確かに教師にあるといえるだろうが、
(それは学級崩壊の原因が教師にある、とは限らない)
それ以上に、願う言葉そのものが通じないという場合である。
 
たとえば私とS教会の責任者とが、信仰の点で噛み合わないとしよう。
教義的理解や学説上の問題などという意味ではなくて、
あの教会はどうにも信仰していることが全然違う、と感じたとするのだ。
そのとき、あの教会のほうに非や原因があるかもしれない。
他方、私のほうに非や原因があるかもしれない。
 
しかし、私は他のA教会やB教会の人に相談したら、
たちどころに理解してもらえた、というのである。
このとき、私に非があり歪みがあるという可能性が消えるのではないにしろ、
おそらく話が通じたAやBの教会と共に、
クリスチャンたちに通じ合うものがあると思うのだ。
 
救いや聖書の理解において、
同じ土俵にいる人々との間には、
たとえ意見が対立するかのように見えたとしても、
たしかに通じるものがある。
だが、そもそも土俵に上がってさえいない人とは、
通じろと命じられても、通じないものは通じないのである。
 
だからまた、相談した相手と悉く通じていくのは感謝である。
逆に、言葉の通じないような相手とは、一致しようにも難しい。
ここで言う「言葉」とは、言語のことではない。
言葉が通じないというのは、心を理解するのに壁がある、という意味である。
たとえ英語が話せなくても、英語文化の人と共感理解をもつことは、
よくあることなのである。
 
だからまた、聖書にベースを置くということは、
非常に大切であることが分かる。
そもそも聖書という土俵に立っていないならば、
いくら教会という看板を掲げていても、
すでに中身は死んだものとなっているからである。