私が聖書に気づくようになったのは、
三浦綾子さんの『帰りこぬ風』という小説だった。
とりたてて、それがどうだという作品ではないかもしれない。
だが、
その作品には、たしかに祈りがこめられていた。
だから、そこに「霊」を感じた。
そこから、聖書を読まなければ、という道に
突き進んでいくことになったのだから、
その分岐点は実に大きな意味があった。
だから、『塩狩峠』に出会うのも、時間の問題だった。
これは、ある殉職――ではないかもしれない、だが
命を捨てて人々を守った、長野政雄さんという人の死を
小説として紹介したものである。
その長野さんが犠牲の死を遂げたのが、
100年前の、2月28日であった。
とてもとても、長野さんの顔を正視できないような生き方しかできない、
そんな自分を感じるとき、
どうしてそんなことができたのか、
そんなに若くして神のもとにいってしまったのか、
だがまた、そのことが私を聖書に導いたということをかみしめて、
キリストの十字架の広さや高さ、深さを
感じざるをえないと思うのであった。
長野さんのいた教会は、旭川教会である。
そういう人の生き方は、時代が変わっても、
輝きが変わるはずがない。
変わったものがあるとすれば、私たちの鈍さであろうか。
三浦綾子さんの『帰りこぬ風』という小説だった。
とりたてて、それがどうだという作品ではないかもしれない。
だが、
その作品には、たしかに祈りがこめられていた。
だから、そこに「霊」を感じた。
そこから、聖書を読まなければ、という道に
突き進んでいくことになったのだから、
その分岐点は実に大きな意味があった。
だから、『塩狩峠』に出会うのも、時間の問題だった。
これは、ある殉職――ではないかもしれない、だが
命を捨てて人々を守った、長野政雄さんという人の死を
小説として紹介したものである。
その長野さんが犠牲の死を遂げたのが、
100年前の、2月28日であった。
とてもとても、長野さんの顔を正視できないような生き方しかできない、
そんな自分を感じるとき、
どうしてそんなことができたのか、
そんなに若くして神のもとにいってしまったのか、
だがまた、そのことが私を聖書に導いたということをかみしめて、
キリストの十字架の広さや高さ、深さを
感じざるをえないと思うのであった。
長野さんのいた教会は、旭川教会である。
そういう人の生き方は、時代が変わっても、
輝きが変わるはずがない。
変わったものがあるとすれば、私たちの鈍さであろうか。