ネットを管理していると、いろいろなことがある。
様々なひとが自由に出入りするわけだから、
いろいろな人が訪ねてくるのは当然である。
 
およそ長い間ネット生活をしていれば、
当然そのくらいのルールには通じているだろう、と思われるのに、
簡単なことができない人もいる。
 
いきなり、ある投稿に自分への批判が嘘として書いてあるので
削除しないと管理者のお前も名誉毀損で訴えるぞ、という脅し。
ただ、何がどういう嘘であるのか、一切説明がない。
とくに2行ほどの短い文面の中にさえ誤字が入っていると、
これは果たして本当にその本人からのものなのか、
そして批判した方が嘘なのか、こう迫ってきた方が嘘なのか、
こちらとしては判断がつかないのである。
その名が無名人ではないゆえに、
騙っている、という可能性もあるからだ。
もしほんとうに当人であるならば、その人が教育者であるだけに、
そういう点に気づいていないのだろうか、と資質を怪しんでしまうが。
 
教会というところも、いわば人の出入りは自由である。
悩みを抱えた人を迎え入れることは、教会の大切な役割であろう。
だから、私も様々な人を見てきた。
心の弱い人もいる。
精神的に問題を抱えている人は、決して少なくない。
 
自分はこう思っているだから、おまえは俺のことが分かるはずだ、と
思い込まれても、困る。
まるで、ウィンカーを出さずに曲がろうとする車のようだ。
そういう車は、実に多いが。
 
また、私が記したことについても、
それは自分を批判している、と感じる人がいる。
それを私のほうに返してくれるなら喜んで受けるし、
私の記したどこがどのようにいけないのか、
指摘してくださると嬉しい限りだ。
 
ただ、私の文面を逆に、
「こんなひどいことを書かれた」と
自分に同情を集めるために利用するような陰険なことをされるとなると、
困ったものだと思う。
もしかすると、自分で改竄した文章を
私の責任に帰しているかもしれないし、
事実私がまさに適切な批判をしたことが、
その後も明らかになってきているのに、それが
全く分からないとなると、これまた哀れである。
 
とはいえ、人が悪口と感じるようなこと言うのは、
気持ちのよいものではない。
その何倍か、私は自分の悪口を自分で言っているつもりなのだが、
それも甘いと言われればそれまでである。
人を褒める方が、誰もが気持ちよくなることなのだろうと思う。
だが中には、褒められることで潰れていく人もいる。
また、褒められることで害毒をよけい流すよう励む人もいる。
ひどい場合には、周囲の人々が、
その害毒で破滅に向かっていることに気づいていない場合がある。
そんなとき批判は、しないほうが、愛がない。
 
批判とは、いつも繰り返すが、非難ではない。
批判するとは、検討すること、検証することである。
それはいったいどういうことなのか、よく調べよう、ということである。
元来「分ける」ということを言うために生まれた言葉であると思われる。
そこから意味が派生し、新約聖書の中でもこの単語は
十を下らぬ別の言葉として日本語に訳出されているという。
 
一人を批判しないことで、
他の多くの人を危険な目に遭わせるというのであれば、
批判の矢を向けることをためらうことはできない。
もしそのことで、その一人が自分の姿に気づいて、
他人を危険な目に遭わせずに済むようになれば、
その一人の人をも救うことになるだろう。
また、同様の問題に当たっている人に対しても、
参考になったり、勇気を与えたりすることができるかもしれない。
「自分だけじゃないんだ……」
ネットによって、そう思ってほっとしたことは、
誰しもあるのではないだろうか。