バレンタインデーも
一時の華やかさを失ったかのように見える。
たぶん報道のせいもあるだろうと思う。
この不景気の中、華やかに報道するわけにはゆかないのだ。
 
それでも日本では、
何でも受け容れオーケーの風土なものだから、
バレンタインのチョコレート云々とおめでたいものだ。
尤も、受け容れているようで
実は日本的にすべてを変質していくのだ、という見方もあるが、
今はそういうことを検討するゆとりがない。
 
イスラム教国が、
欧米の文化の流入を拒否するのはままあることだと思ったが、
このたびインドがものすごい。
バレンタインデーなんぞ非国民であるとして、
宗教過激グループが、一種の恐怖状態をつくっているのだという。
 
横断幕を出し、抗議のシュプレヒコールをするならまだおとなしい。
パーティーに乱入して破壊しまくるというのもあったそうだ。
いや、気の毒なのは、
歩いていた兄妹が、恋人同士と間違われて襲撃されて重傷を負ったという。
私刑にも、程がある。
 
こうなると、宗教の恐ろしさとしか言えなくなる。
 
もちろん、キリスト教も過去そのようなことをしてきた。
神の名のもとに、いわば無実の人を殺害し続け、
あるいは歴史ある文明を滅亡させた。
 
殺人カルト教団が糾弾される現代であるが、
それどころではない罪を重ねてきている。
ユダヤ人迫害をも含めると、
もう誰にも顔向けができないほどの罪業である。
 
そのホロコーストに対する考えについて、
現ローマ教皇が、窮地に立たされているという。
まるでどこかの国の総理大臣のようだが、
発する言葉のひとつひとつが、
まるで非難を浴びるために発せられているかのようである。
 
人をまとめるのは難しい。
まとめるには、金が必要だとも言われる。
給付金を出せばまとまる、と目論んだ人は、
現実とフィクションの区別がつきにくかったのかもしれない。
 
だが、この宗教というものは、
比較的容易に、人をまとめることをなすのである。
もちろん良い効果をもたらすこともあるのだが、
その目的の善し悪し次第だとなると、
宗教自体が、道具や手段となっていることになる。
それは目的を建てるようなものではなかったのだろうか。
 
どこまでも、人の中に巣くう悪は、
悪として活動を続けるものである。