家に仏壇がある。
そういうクリスチャンも珍しくないだろう。
まさに、毎日が闘いであるかもしれない。
まったくそれにはノータッチ、というのが理想的かもしれないが、
立場などいろいろ背景があるから、
泣く泣くそれを拝むようなことをしている人がいるかもしれない。
また、抵抗なく拝んでいるという人もいるかもしれない。
たしかに、すべてを拒むというのは、
ある種望ましいものではあるだろう。
だが、すべてにおいてそれが公式であり
すべてである、と言い切ることには私はやはり抵抗がある。
ほんとうに、様々なケースがあろうかと思われるからだ。
ナアマンの職務についても有名だが、
私はたとえば、エジプトに売られたヨセフのことを思う。
彼は兄弟たちの妬みを買うなどして、
エジプトへ売られ、親にはもう死んだものと思われていた。
だが、エジプトで知恵と恵みに満ちたヨセフは、
王の信頼を得て、ついにエジプトの宰相にまで成り上がる。
このヨセフは、
イスラエルの主から送られる夢により助けられていったのだが、
はたしてエジプトでどういう宗教生活を送っていたのだろうか。
普通に考えて、
エジプトの神々を拝むのでなければ、
宰相などの仕事ができなかったのではないだろうか。
他方、ダニエルのように、
断固として異教的なもの、いやいや、肉食さえ拒んで、
ライオンの餌になりかけてなお
主に守られた、という例も旧約聖書にはある。
どれかの態度が一律正しい、というふうには
聖書は書いていないようなのである。
大切な視点があるかと思う。
何をするのか、どう行為するのが正しいのか、
そうした観点ではない、別の見方があるだろうと思うのだ。
私たちは、自分の考えや立場を理解してほしい、と考えている。
自分は聖書を信じているからこういうことができないのだ、
それを分かってほしい、と暗黙のうちに願っているとしよう。
それが、自分の正しさを示そうとする態度であるとするならば、
そういうことからも解放されるやり方があるかと思うのである。
どうして相手はそのように迫るのか。
どうして仏壇を自分に強制してくるのか。
どうして祖先を敬わない、などと言ってキリスト教を嫌うのか。
それを、自分の側が、まず理解しよう、とはたらくのである。
理解されるよりも、理解することをさせてほしい。
そんな古人の祈りもあった。
それは、平和の祈りと呼ばれた。
この理解の姿勢がなければ、
自分がいかに強固な信仰生活を送っていようと、
いかに聖書を学び言葉を覚えていようと、
自分の正しさを主張するばかりとなり、
やかましいシンバルと化してしまうのではないだろうか。
そういうクリスチャンも珍しくないだろう。
まさに、毎日が闘いであるかもしれない。
まったくそれにはノータッチ、というのが理想的かもしれないが、
立場などいろいろ背景があるから、
泣く泣くそれを拝むようなことをしている人がいるかもしれない。
また、抵抗なく拝んでいるという人もいるかもしれない。
たしかに、すべてを拒むというのは、
ある種望ましいものではあるだろう。
だが、すべてにおいてそれが公式であり
すべてである、と言い切ることには私はやはり抵抗がある。
ほんとうに、様々なケースがあろうかと思われるからだ。
ナアマンの職務についても有名だが、
私はたとえば、エジプトに売られたヨセフのことを思う。
彼は兄弟たちの妬みを買うなどして、
エジプトへ売られ、親にはもう死んだものと思われていた。
だが、エジプトで知恵と恵みに満ちたヨセフは、
王の信頼を得て、ついにエジプトの宰相にまで成り上がる。
このヨセフは、
イスラエルの主から送られる夢により助けられていったのだが、
はたしてエジプトでどういう宗教生活を送っていたのだろうか。
普通に考えて、
エジプトの神々を拝むのでなければ、
宰相などの仕事ができなかったのではないだろうか。
他方、ダニエルのように、
断固として異教的なもの、いやいや、肉食さえ拒んで、
ライオンの餌になりかけてなお
主に守られた、という例も旧約聖書にはある。
どれかの態度が一律正しい、というふうには
聖書は書いていないようなのである。
大切な視点があるかと思う。
何をするのか、どう行為するのが正しいのか、
そうした観点ではない、別の見方があるだろうと思うのだ。
私たちは、自分の考えや立場を理解してほしい、と考えている。
自分は聖書を信じているからこういうことができないのだ、
それを分かってほしい、と暗黙のうちに願っているとしよう。
それが、自分の正しさを示そうとする態度であるとするならば、
そういうことからも解放されるやり方があるかと思うのである。
どうして相手はそのように迫るのか。
どうして仏壇を自分に強制してくるのか。
どうして祖先を敬わない、などと言ってキリスト教を嫌うのか。
それを、自分の側が、まず理解しよう、とはたらくのである。
理解されるよりも、理解することをさせてほしい。
そんな古人の祈りもあった。
それは、平和の祈りと呼ばれた。
この理解の姿勢がなければ、
自分がいかに強固な信仰生活を送っていようと、
いかに聖書を学び言葉を覚えていようと、
自分の正しさを主張するばかりとなり、
やかましいシンバルと化してしまうのではないだろうか。