私たちは「食卓」という言葉に対して、
物質的なテーブルのみを理解することはないだろう。
「食卓」という言葉は、それを囲む人々、
さらに言えば囲む人々のつながりや
人々がつくる雰囲気といったものをすべて含むものを意味するはずである。
テレビドラマの設定で、
家族が食卓を囲み、談笑している場面がある。
時代劇的に昔の出来事ではないとすれば、
その描き方が適切であるのかどうか、分からない。
かつてアメリカのホームドラマを見た日本人が、
あれこそ憧れ、と夢見たのと同じような、
現実にないものとしてそこにあるのかどうか。
食べる時間帯が、ばらばらである。
食べる食卓が、異なる。
器だけ自分の部屋に持っていって、食べる。
何かしながら、食べる。
足を組んだり、肘をついたりして食べる。
たまたまそこに複数の家族が居合わせても、会話というものがない。
子どもに対して親が、「早く食べなさい」などの小言ばかり言う。
こうした事態は、いつのまにか、
あたりまえのものに、なってしまっていないだろうか。
我が家は、そんな感じになっている。
きっとよそはもっと楽しげに……と思わないわけではないが、
えてして、これに近いところが、多いのではないかとも思う。
食べることは、人間が生きることの基本である。
生きることは、食べることである。
これを蔑ろにするところに、「生きる」ことは支えられない。
こうした基盤を踏まえた上で、
ソクラテスの「善く生きる」ことが想定されなければならない。
また、「パンだけで生きるのではない」という言葉が
命をもつのでなければならない。
私たちは、崩壊する「食卓」を、
どう捉えていくとよいものだろうか。
ただノスタルジックな家族の姿を
昔話のように思い出すしかないのだろうか。
物質的なテーブルのみを理解することはないだろう。
「食卓」という言葉は、それを囲む人々、
さらに言えば囲む人々のつながりや
人々がつくる雰囲気といったものをすべて含むものを意味するはずである。
テレビドラマの設定で、
家族が食卓を囲み、談笑している場面がある。
時代劇的に昔の出来事ではないとすれば、
その描き方が適切であるのかどうか、分からない。
かつてアメリカのホームドラマを見た日本人が、
あれこそ憧れ、と夢見たのと同じような、
現実にないものとしてそこにあるのかどうか。
食べる時間帯が、ばらばらである。
食べる食卓が、異なる。
器だけ自分の部屋に持っていって、食べる。
何かしながら、食べる。
足を組んだり、肘をついたりして食べる。
たまたまそこに複数の家族が居合わせても、会話というものがない。
子どもに対して親が、「早く食べなさい」などの小言ばかり言う。
こうした事態は、いつのまにか、
あたりまえのものに、なってしまっていないだろうか。
我が家は、そんな感じになっている。
きっとよそはもっと楽しげに……と思わないわけではないが、
えてして、これに近いところが、多いのではないかとも思う。
食べることは、人間が生きることの基本である。
生きることは、食べることである。
これを蔑ろにするところに、「生きる」ことは支えられない。
こうした基盤を踏まえた上で、
ソクラテスの「善く生きる」ことが想定されなければならない。
また、「パンだけで生きるのではない」という言葉が
命をもつのでなければならない。
私たちは、崩壊する「食卓」を、
どう捉えていくとよいものだろうか。
ただノスタルジックな家族の姿を
昔話のように思い出すしかないのだろうか。