横断歩道を、ケータイを操作しながら歩いてくる。
うちの生徒だ。
「危ないぞ」と私は注意する。

生半可な言い方ではない。
先日、その横断歩道で、私の目の前を、
歩行者信号が青になって数秒後、
ノーブレーキで突き抜ける車を見たのだ。

信号を、全く見ていなかったのである。
もうあと何メートルか急いで渡っていたら、
その人は確実に死んでいただろう。
そういうことが、あるのだ。

ケータイに見入っているとなると、
何かそういう事態の変化に、
全く気がつくことがない。

「大丈夫。だいたい周りには気をつけているから」
などと思う心が、迷惑だ。
その人は、車を運転する側になっても、
ケータイをしながら運転するだろう。
酒も飲んで運転するかもしれない。

ケータイに夢中になりながら、
踏切にのほほんと入って、命を落とした人のニュースが、
時々報じられる。
報じられないでもそうやって死んだ人が、
ちょくちょくいるのだろうと推測する。
大いにありうることだから。
「自分はそんなへまはしない」と言う人は多いが、
残念ながら、
「自分はそんなへまをしました」と言う人は、存在しない。
つまり、もうこの世には一人も存在していないのだ。

ある意味でこういう人は、
世界を信じ切っている。
自分の近くには、信号無視の車などあるわけがない。
そう信じ込んでいないと、なかなかできない行為である。

こんな信仰深い人がいるものか、と感心する。
人間、そんなにまで何かを信じ切ることはできないのが普通だ。

私や、多くの人からみれば、
それは過てる信念である。
しかし、当人はもう素直に信じている。

「私がケータイに見入りながら、
 ひたすらまっすぐ歩いていても、
 必ず相手が私を避けてくれる」
そんなふうに信じている人も多い。

そうそう、道路をふらふらと渡る自転車、
とんでもないところでひゅっと飛び出すお年寄り、
あるいは、おばちゃん。
「轢けるものなら轢いてごらん」とでも言うかのように、
堂々と車の前に飛び出していく。

ものすごい信仰である。