八王子の書店での刺殺事件は、
多くの人の哀しみや憤りを誘った。
「またか」などでは済ませられない。
名を挙げるために、無関係な人に刃を向けるなど、
道徳も倫理も、そして宗教も何もない世界だ。

それは、秋葉原の連鎖だ、などと言っている場合ではない。
どこまでも人のせいにしようとする輩を嗤わせてはならない。

アリストテレスは、
人間を社会的(共同体的)存在だと言ったが、
人がひとりでは生きていけないことをよく分かっていた。
孤独を愛すると言い張るならば、
そいつは野獣か、でなければ神だろう、などとも言っていたようだ。

心理学的には、
自己肯定感覚を得られなかった歪みがあるのではないか、
といったコメントがあるようだ。

そうだろうか、と私は感じることがある。

埼玉で父親を殺した女子中学生もそうである。
報道だけでは、何も分からないし、
彼女を知っているだなどと言う立場でもないし、
そんなつもりもない。

ただ、彼らは、自己肯定感覚を得られなかったのではないと思う。
自己肯定感覚しか得られなかったのだ。

どんなにその親に否定的に扱われたトラウマがあろうとも、
自殺ではなく、他殺でそのウサを晴らしたというのは、
自己をどこまでも肯定することしかできなかったからではないのか。

言い方を換えれば、
適度な自己否定をするバランスが欠如していたのだ。
自己肯定は、適度な自己否定とのバランスの中で
健全なものとなっていく。
自分の中で対話があるなど、
破滅的にならない対立を経て、
自分というものは肯定されていく。

しかし、それがない場合は、
一見自己否定のように見えて、実は自己だけを肯定するから、
他人の命を平気で奪えることになるのではないか。

孤独感が深まるから事件が起きる、などとも言われるが、
そもそもの孤独など存在しないとするならば、
自分から勝手に他人に心を閉ざして、
孤独の被害者を演じているだけだ。

孤独だと宣言する場合にも、
責任が伴う。
それが、個人の自由というレベルでの正当な扱い方だ。
対人恐怖などというものも、
全部が病気であったり、
全部が本人に責任がなかったりするわけではないのだ。