ついにゆとり教育は方向転換を強いられた。
細かな点の検討はできていないから、
ここではその具体的なアプローチはできない。

教育というのは、
つねに現在進行形でなければならないがゆえに、
多少の人体実験的な営みはやむをえない面がある。

この10年の間、
最も薄い教科書で学んできた世代は、
後の社会でどのように扱われるのだろうか。
我が家にもその世代がいるわけだ。

その間、塾業界は、反ゆとりの姿勢をとっていた。
中には、だから塾こそ、と意気込んでいたところもある。
他方、ゆとり教育をとりやめるよう、
熱心にはたらきかけていたところもある。
いわば、自分だけの利を求めずに訴えていたようなものである。

自分だけのビジネスチャンスとして
目先のことだけを考えるようでは、
長続きはしないだろう。
昨今の幾多の企業の失敗の話題は、
そうしたことを改めて教えてくれている。

さて、方向転換をした教育行政。
だが、実感では、教師の質が下がっている。
とくに、責任職が、能力性を欠いているように伺える。
端的に言えば、「プロがいない」ということだ。

今回の学習指導要領改定においても、
時間数が増えても、手法や教える側の姿勢次第では、
何の変化も見られない虞がある。
英語が小学校で強化されるようだが、
日本語の取得が先ではないかと思うのは、多分私だけではない。

道徳は、国語が行っていた。
愛国心も、国語が行っていた。
わざわざそんなものを教科や評価に組み入れる必要はない。
そして、国語がまさしく日本語を教える科目となるのであれば、
さらに有意義になるに違いないと思う。

しかし、国語の強化はあまり表に出ていない。
また、せっかく実施した学力テストの結果を踏まえるには、
あまりにも研究されずに急がれた結論ではないか、とも思う。
どうせまたこれも試行に過ぎない、といえばそれまでなのだが。