ゲゲゲの鬼太郎がアニメでまたリメイクされている。
日曜の朝、子どもが喜んで見ている。
ちょいと恐い雰囲気があるせいか、
一瞬の画面で、鬼太郎だね、と分かる。

アニミズム的な色彩があることで、
子どもに見せるのをためらう、といつかここに記したら、
お叱りのコメントを戴いた。
ありがたいことだと思う。
そこで、私も時折そのアニメを見守ることにした。このアニメは、時を経て幾度もリメイクされている。最初の白黒ものは、かなり恐かった。いや、実は原作のマンガの初回も見たことがあるが、とてもアニメにできるような代物ではない。だから次第に、鬼太郎というキャラクターが、正義の味方として美しく仕立て上げられていくのも、テレビという媒体ではやむないことだと、理解しているつもりだ。しかしながら、今回のリメイクは、どうやら「ぬらりひょん」との一騎打ちの様相が強い。宿命のライバルよろしく、ぬらりひょんが鬼太郎を倒すために次々と新たな妖怪を送りこんでくる。かつての妖怪ポストの面影はない。そして、この戦いの中で、人間がどこにいるのか、分からなくなった。以前の版は、人間のしでかす愚かな行為や、人間の罪業といったものが、妖怪を生み、あるいは呼んだ。人間社会の矛盾といったものが、子どもたちにも何か伝わるような作品になっていたと覚える。だから、ネズミ男の存在が大きかった。半妖怪のネズミ男は、二股膏薬であった。人間と妖怪の間でどちらにつくかその都度変化する。ときに鬼太郎の友人となり、殆ど毎回、鬼太郎を裏切る。そのネズミ男を決して排除しない鬼太郎の姿は、慈愛そのものでもあった。まるで、人間そのものが、半分妖怪の本質をもっていて、そのネズミ男のように、二心で――つまり本音と建て前でもって――世界で善人面をしている者であることを、伝えたいかのような作品だった。しかし、今回は、そのネズミ男の居場所が殆どない。妖怪の出現に、人間が関わっていない。ただ妖怪の世界が限りなく人間社会のように機能し、妖怪の世界だけの物語になっているかのようにさえ見える。ウルトラマンシリーズも、当初はその超人と怪獣の戦いが呼び物だった。だが、ウルトラセブンにみられるように、人間社会の矛盾がそこに色濃く反映されるようになり、平成のウルトラマンティガ以来、環境問題さえもウルトラマンの思想に大きく関与してきた。怪獣の立場から見れば、地球人やウルトラマンこそ、いじめの張本人ではないのか、などという視点も入ってきた。その中で、いわば苦しい闘いを超人たちは強いられてきたのである。ゲゲゲの鬼太郎は、最初から人間の悪に対して、異世界の住人である鬼太郎などが、人間に代わって取り組み、苦難を背負う仕組みをもっていたと理解したいのだが、それがどうも、様子が変わってきた。侵略しようとする宇宙人と鬼太郎がただ戦っているだけのようになった。そこへ、いやに少女らしくなった猫娘の恋心がやたら大きく扱われていて、もしや女の子のファンも取り込もうとする策略かしらと勘ぐるほどである。こんなシンプルな構図で、鬼太郎は骨身を削らなければならないのか。そして、殆ど理解不能なほどに鬼太郎は不死身になった。もともとその気はあったにしろ、いっそう、ただリセットされるコンピュータゲームのキャラに近づいてきた。キャラビジネスの中に取り込まれて、妖気を失ってしまったのではないか、と私は感じている。