2005年12月、衝撃が走った。
宇治市の学習塾「京進宇治神明校」で、小学6年の女児が、講師に刺殺されたのだ。
その京都地裁判決が出され、求刑無期懲役に対して懲役18年と言い渡された。

法的な基準ではどうだということもあるから、
素人の私が量刑について審議する資格はなかろう。

重い刑にしたところで、被害者の命が戻るわけでもない。
社会的影響も消すことができない。
だが、軽い刑であれば、
被害者の家族は、失望するものがあるだろう。
娘の命は、たったそれくらいの価値しかないのか、と。

その刑くらいしか、量るものがないからだ。
刑は、命の代価なのだ。

キリストの十字架は、命の代価であった。
これを「購い」という。

人間の身では、簡単に購いなどできない。
せめて、「償い」なら、しようとする者は、いくらかでもできる。
だが、その償いすら、昨今意識が減じている。

私たちの中から、「償い」という言葉が死滅しようとしている。
言葉が死滅するということは、その考えそのものが消失しているということである。
それは、怖いことだ。