クリスマスについて述べると、いくらでも筆が進む。
今年は、デボーションを心がけた。
LifeWayというサイトがあり、
そこに日々の祈りと黙想が書かれている。
英語である。
英語にはどこかで触れていなければ忘れそうでもあり、
辞書を片手に読んでいくことにした。
キリスト教関係の語彙や用語が分かればそれでよいとはいえ、
日常的な単語に、調べると思わぬ意味で使う用法があることを学ぶ。
誤訳もあろうが、おおむね大切な点は捉えられるからいい。

クリスマスは、神からかけがえのない贈り物を戴いたことを覚える。
人を愛することをそこに見出すというのは、もちろん悪いことではない。
だが、人間が「愛」と口にするものは、
しばしば自分が求めるものを指し、対象を自己の道具のようにしているものだ。
クリスマスは、そんな偽物の「愛」を教えるものではない。

世の中に偽物があふれていたことは、
今年の漢字なるものでも明らかに示された。
その上で、年金に対する公約などしていないなどと、
もうあらゆるものに真実がないことが露呈されている。
そう。世の中の言葉は、偽物であることが当たり前なのだ。
信頼はおくべきだが、信仰はできない。
だから、わざわざ神にのみ、信仰という語を使う。
信頼は裏切られることがあるが、信仰は裏切ることがない。

クリスマスは、家族で過ごす、という習慣が欧米にはあるという。
ともかく、家族で迎えるというのが、クリスマスの通常の姿らしい。
日本では、お正月がそれにあたるだろう。
お正月を恋人との一大事だと捉える人はいないものだ。

ついで、クリスマスは自分が愛されていることをかみしめ、
誰か困った人がいないかという眼差しを強くすることもある。
自分にも誰かの助けができないか。
何かできないか。
それは、自分本位の思いではない。
半世紀前のアメリカ映画に、そういう金持ちが登場することがある。
慈善の機会だというのである。

誰かにギフトを用意している方もいらっしゃるだろうか。
受け取る笑顔が、うれしいものだ。
神もまた、御子を贈ったのであるから、
私たちの受け容れる笑顔を喜ばれることだろう。
だから、子どもたちの笑顔が、いちばん輝いていてほしい時期でもある。