これも昨日に続く補足。
先日、このようなことを記した。

傍観していた他の弟子たちに比べて、
湖の上に躍り出たペトロにはその信仰があったのだろう。
だが、風を見たとき、ペトロは沈み始めた。


風が見えるはずがない。
聖書はだから信用おけない……。
早急な結論は出さないで戴きたい。

私たちも、たとえば慣用句というものをもつ。
「チョコレートには目がない」という表現で、
チョコに目など付いているものか、とは考えない。

ペトロは、ここで確かに風を見たのである。
ヘブライ語で風は、神の霊や息を表すときにも使う語であるという。
しかし、神を見たのではない。
ペトロは、自分を脅かす現実に目を奪われたのである。
神が「来い」と呼ぶのに応じたペトロはさすがだったが、
ふと、神の導きならぬものに目を奪われたのである。

それでも、イエスはすぐさま手を伸ばして助けた。
この辺りが、神の恵みそのものである。

ところで、バプテスマのヨハネについて、イエスは弟子たちに尋ねた。
「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か」
ここでは、風すら見ていない。
葦を見て、ヨハネが来た意味すら感じとろうとしていない。
今より真の救い主が来るという予告を、なんとも感じていない。

ペトロが風を見たことを、私たちは嗤うこともできる。
だが、他の弟子たちは一歩も水の上に出ることさえできなかった。
ペトロはそこへ出た。
また、ちゃんと風を見ていた。
こうなると、この風は、やはりどこか、神であったっていい。
もちろん、それは聖書とはやや外れた読み込みとなってしまうけれども。