北海道のミートホープという会社による
食肉擬装事件は、
その後の、段ポール肉まんとか、白い恋人たちとかの報道により
消し去られてしまったかのようにさえ見える。
すべて計算の上で嘘をついていた、ということは
やはりもはや認められない行為であったし、
そのことは世間の誰もが思っていることだろう。
では、もしも、あの社長が、つまり会社が、
豚肉のことを牛肉だと信じて疑わなかったとしたら、どうなるだろう。
現実にはありそうにないことだが、
思考実験である。
自分は牛肉を使っていた、と心の底から思っている場合である。世の中の誰もが、それは豚肉だ、としか思えなくても、信じ込んだ社長が、これは牛肉だと売り込むのである。食べる者も、売る側の社員も、言われるままに、牛肉だと信じてしまうケースである。誰かが指摘するまでは、やはりばれないだろう。でも、指摘したところで、この社長は、どう思うだろうか。「でも、これは牛肉なんだ」自分の認識が誤りであることを、認めることはできないだろう。これは、嘘をついた、という単純な事例とはならないかもしれない。それでも、社会的には、確実に、虚偽を振りまいたことにしかならない。法的には、精神鑑定ということに、なるのだろうか。そのあたりは、私には分からない。ただ、これはなかなか改められないだろう、とは感じる。何か絶対的な基準があれば、違いが分かろうものだが、なにぶん本人が、絶対的な基準を誤っているのである。似たようなことは、色覚についてもよく言われる。私が「赤」と感じている色と、あなたが「赤」と感じている色とが、同じものであるという確認は、ひじょうにとりにくいのである。近年、波長という絶対的基準が生まれたときに、比較の可能性が出てきたが、それまでは難しかった。豚肉の例の場合は、科学的に豚肉だと検査すればよいのだが、この社長が、私たちの呼ぶ「豚」のことを「牛」と呼ぶように理解していたら、事は厄介になる。個人の知覚は、それ自身で成り立っている。私たちは普通、それを他人との共感という運動で、共通感覚としてカバーするように努力している。つまり、自我すら、他人を通して初めて確立するように。私たちが何に重きを置くかによって、この「思いこみ」による確信は、扱いが大変難しくなるのである。これを「確信犯」とよく言っている。間違ってもやりぬく意味でないことは、もちろんだ。自分だけはそれを正しいと信じ続けることである。だからまた、正義というものについて、意見が一致しないのである。
食肉擬装事件は、
その後の、段ポール肉まんとか、白い恋人たちとかの報道により
消し去られてしまったかのようにさえ見える。
すべて計算の上で嘘をついていた、ということは
やはりもはや認められない行為であったし、
そのことは世間の誰もが思っていることだろう。
では、もしも、あの社長が、つまり会社が、
豚肉のことを牛肉だと信じて疑わなかったとしたら、どうなるだろう。
現実にはありそうにないことだが、
思考実験である。
自分は牛肉を使っていた、と心の底から思っている場合である。世の中の誰もが、それは豚肉だ、としか思えなくても、信じ込んだ社長が、これは牛肉だと売り込むのである。食べる者も、売る側の社員も、言われるままに、牛肉だと信じてしまうケースである。誰かが指摘するまでは、やはりばれないだろう。でも、指摘したところで、この社長は、どう思うだろうか。「でも、これは牛肉なんだ」自分の認識が誤りであることを、認めることはできないだろう。これは、嘘をついた、という単純な事例とはならないかもしれない。それでも、社会的には、確実に、虚偽を振りまいたことにしかならない。法的には、精神鑑定ということに、なるのだろうか。そのあたりは、私には分からない。ただ、これはなかなか改められないだろう、とは感じる。何か絶対的な基準があれば、違いが分かろうものだが、なにぶん本人が、絶対的な基準を誤っているのである。似たようなことは、色覚についてもよく言われる。私が「赤」と感じている色と、あなたが「赤」と感じている色とが、同じものであるという確認は、ひじょうにとりにくいのである。近年、波長という絶対的基準が生まれたときに、比較の可能性が出てきたが、それまでは難しかった。豚肉の例の場合は、科学的に豚肉だと検査すればよいのだが、この社長が、私たちの呼ぶ「豚」のことを「牛」と呼ぶように理解していたら、事は厄介になる。個人の知覚は、それ自身で成り立っている。私たちは普通、それを他人との共感という運動で、共通感覚としてカバーするように努力している。つまり、自我すら、他人を通して初めて確立するように。私たちが何に重きを置くかによって、この「思いこみ」による確信は、扱いが大変難しくなるのである。これを「確信犯」とよく言っている。間違ってもやりぬく意味でないことは、もちろんだ。自分だけはそれを正しいと信じ続けることである。だからまた、正義というものについて、意見が一致しないのである。