先日、NHKで、保育園の様子が映し出されていた。
実に信念に満ちた教育を実践していて、
その園長がスタジオでコメントしていた。

芋掘りに出かけ、
園児は好きなだけリュックに芋を詰める。
いくら掘って持ち帰ってもよいが、
自分で責任をもってそれを背負い、
1.5kmほど離れた園まで歩いて戻らなければならない、というのだ。

幼児のことである。
必ずしも、金銭的な欲で動くのではない。
中には、自分で背負える量を判断して
そこそこでまとめる子もいるが、
ママの喜ぶ顔が見たくて、
リュックにたくさん詰め込む子が当然いる。

その男の子は、
歩けないほど背負った。
友だちが背中のリュックを支えてくれたりもしたが、
重いものは重い。座り込んだ子どもに、園の先生たちは言う。「自分で背負うって決めたんやろ。 だったら立ちなさい。最後までがんばりなさい」言うほうも心を鬼にして言っているのは分かる。そして、子どももふらふら立ち上がる。その後も何度か挫折しそうになりながら、同様に突き放され、なんとかその子は園までたどり着くのであった。「途中でふっと優しく振る舞うと、 もうそこで力が抜けてしまうんです。 最後までやり通す責任を全うすることで、 子どもたちは本当の充実感を味わうことになります」園長は、得意げにそう語った。子どもが、どこか規格品であるなら、そうした鍛え方もよいかもしれない、と私は思った。動物であっても、最近はそういうやり方をしないことがあると思うが、まあ動物を訓練するのならば、それもよいかもしれない、と思った。だが、子どもに、それでよいのだろうか。たとえば、昔、運動部では誰もがウサギ跳びをさせられていた。それをやり通すのが根性があるということで、ウサギ跳びをして脚が痛くなったりしたら、それは根性が足りないというふうに見られるのが普通だった。今、ウサギ跳びなどを課す運動クラブなど、ひとつもない。もしあったら、それは時代錯誤も甚だしく、スポーツ科学というものを全く学んでいない、危険な団体であると判断して差し支えない。ママのために芋をリュックに詰め込んだあの男の子、座り込んだのは、肩にリュックの紐(太くて平たいが紐と呼ばせてもらおう)が食い込むのが痛くてたまらないのである。そこにタオルをかませて、いくらかクッションになっているものの、どう見ても、肩が痛く、恐らく腰が痛いのだろうと容易に想像された。最後まで責任を以てやり通す精神が鍛えられた代わりに、その子の肩や腰に悪影響が出ていないか、心配である。今このときには見えなくても、将来的に、何か起こらないか、心配である。少なくとも放映映像の中では、肩はどんなふうかと確認するような素振りは、先生たちの中には微塵もなかった。ただ、自分で言ったことは最後までやり通せ、とだけ目を三角にして言い続けるだけであった。わずかでも、肩や腰の具合を案じている様子が映っていたら、私はここまで言うつもりはなかった。だが、園長の説明によると、どんなふうかと同情するようなことは一切してはならない、ということだったので、やはり肩も腰も、全く関心がないとしか見受けられなかった。医学的な知識をもった人も、その場にいる雰囲気ではなかった。近年、こういう行為を、「虐待」と呼ぶ。あるいは「いじめ」と呼んでいる。しかも、こうして養われた精神は、ひたすら過労死へ向かって突き進んでいく道を学ぶことだろうと思う。何を管理し、何を教えようとしているのだろうか。甲子園の高校野球大会がこうしたものに支えられているとしたら、そこで咲く花を愛でている私たちは、実に残酷なことをしていると言わざるをえない。そこからプロの選手になり、あるいはよい経験をした、という幸運な人のコメントばかりが報道され、これによって潰されたという声がかき消されている現実に、私は、社会の集団「虐待」、集団「いじめ」を見るような思いがする。実に非科学的なやり方である点を見るにつれ、瀕死の町内会やこども会も当然のことように感じたが、このあたり、私の中の連想が進みすぎたと言えるのだろうと思う。ともあれ、すばらしい教育論だと紹介するその番組に対して私は、何を垂れ流しているのか、と怒りを覚えていた。