神がいないほうが、人生をエンジョイできるのか。
神の存在証明を別の次元において、
まずそこに疑問がいく。
電化製品が現れて、非能率的な家事から解放された
女性を中心とする家庭人が、
はたして楽になり、幸せになっただろうか。
神なしで、何を基準とし、
確かな道しるべとして歩み果せるというのだろう。
神がないほうが、幸せになれると、どうして言えるのか。
先週、ネットに、目立つタイトルの記事があった。
《英バスに広告「神は多分いない」、教会側は楽観的》
無神論を主張する英国ヒューマニスト協会が、
イギリスのバスにこの言葉を掲げて広告とした。
これは逆に、宣教団体が、
バスに宣教的な広告を出したことに対抗しているのだという。
この無神論者の広告に対して、教会側は、
このことでむしろ逆に人々は神について考えることになるだろう、と
様子を見ている、というのが記事であった。
問題の広告は
「神は多分いない。心配するのはやめて、人生を楽しもう」
というものらしい。
不思議な言葉である。
神がいないならば、なぜ心配がいらないのだろうか。
何の心配なのだろうか。
それは、もしかすると、
罪深い生活をして神に罰されるのではないか、という心配なのか。
だとすれば、当の本人が、
それを「罪深い」と認識しているのである。
神をほぼ前提しているのではないだろうか。
でないならば、
どんな罪を犯しても人生は楽しい、という方向になりかねない。
いろいろな解釈があるだろうが、
いわゆる西洋の「無神論者」は、
案外日本人の想定するその言葉とは
別の考え方をしているのではないかと私は感じる。
神の存在証明を別の次元において、
まずそこに疑問がいく。
電化製品が現れて、非能率的な家事から解放された
女性を中心とする家庭人が、
はたして楽になり、幸せになっただろうか。
神なしで、何を基準とし、
確かな道しるべとして歩み果せるというのだろう。
神がないほうが、幸せになれると、どうして言えるのか。
先週、ネットに、目立つタイトルの記事があった。
《英バスに広告「神は多分いない」、教会側は楽観的》
無神論を主張する英国ヒューマニスト協会が、
イギリスのバスにこの言葉を掲げて広告とした。
これは逆に、宣教団体が、
バスに宣教的な広告を出したことに対抗しているのだという。
この無神論者の広告に対して、教会側は、
このことでむしろ逆に人々は神について考えることになるだろう、と
様子を見ている、というのが記事であった。
問題の広告は
「神は多分いない。心配するのはやめて、人生を楽しもう」
というものらしい。
不思議な言葉である。
神がいないならば、なぜ心配がいらないのだろうか。
何の心配なのだろうか。
それは、もしかすると、
罪深い生活をして神に罰されるのではないか、という心配なのか。
だとすれば、当の本人が、
それを「罪深い」と認識しているのである。
神をほぼ前提しているのではないだろうか。
でないならば、
どんな罪を犯しても人生は楽しい、という方向になりかねない。
いろいろな解釈があるだろうが、
いわゆる西洋の「無神論者」は、
案外日本人の想定するその言葉とは
別の考え方をしているのではないかと私は感じる。