神戸市須磨区の私立滝川高校で、三年生の男子生徒が飛び降り自殺した。
7月3日午後のことであった。

同級生から、繰り返し金品を要求されていたことが、このたび判明したという。
恐喝未遂容疑で捜査が始まった。
そして、ついに逮捕というところにまで及んだ。

遺書に名前のあった生徒たちは、
遊びのつもりだった、
と言っている。そのあたりの真相については、ここでとやかく言うまい。だが、いつもながら呆れるのは、学校のおきまりの反応である。生徒の自殺後、学校側は「生徒に変わった様子はなく、いじめは把握していない」と説明していた。(読売新聞)学校側は当初、「いじめなどは把握していない」としていた。その後も同学年の生徒から聞き取り調査をしたが、「金を要求されていたとか、いじめられていたという話は全く出てこなかった」という。(時事通信)同校の教頭は「同級生とのやりとりはささいなことで、いじめという認識はない。理由はまったく不明だ」と話した。 (asahi.com)預かった――たくさんの学費をその親からもらいつつ――生徒が死んでも、ささいなことなのか。把握できなかったから、どうなのか。そのことを恥ずかしいという気持ちがあるのか。それとも、いじめと認識していないゆえに学校に責任はない、と言いたいのか。その後17日会見した同校の校長は(62)「容疑内容から考えると、いじめがあったかもしれない。お騒がせし、おわびします」と述べ、謝罪した。 (西日本新聞)加害者側を気遣って、「かもしれない」と口にしたのなら、それはそれでいいとしよう。被害者側からすればたまらないが、容疑段階で決めつけてはいけないかもしれない。しかし、いったい誰に何を詫びているのか。お騒がせしたのは世間だろうから、世間にしか詫びていないのではないか。責任は、騒がせたことにしかないのか。事故で終われば、騒がせなかったことになり、詫びる必要がなかったのか。教育を行う場所に、人々が期待していることは何であろうか。