昨日、6月1日より、車の後部座席での
シートベルト着用義務の法令が施行された。

基本的に、私の車では、後部だろうが、ベルトをしてもらっている。
べつだん、何がどう変わるということはない。
ただ、後ろに座った妻が、
発進してからベルトを締めていたこともあったので、
座ったらとにかくすぐに締めよう、と漏らしていたのが印象的だった。

先日、高齢ドライバーに割り込みや幅寄せなど
する人がいるのだろうか、と疑問を呈したが、
1日の東京都での取り締まりで、
違反が16件あったというニュースを聞いたので、
これは私の認識が甘かったと反省している。運転中の携帯電話では、1428人が警告を受けたという。このように、道路には危険が転がっているというのは、これは私の予感が適切であったことを示しているだろう。他方、京都市では、同じ1日、市内中心部において、たばこを吸った人から過料を徴収することを始めている。法令の適用というのは難しいものがあろう。トラブルも発生するだろうし、徴収者はひどく憎まれることがあるのではと思う。二千年前のユダヤにおいて、取税人がどれほど同胞に憎まれていたか、聖書から私たちは学ぶものである。法というものは、義しく適用するのでなければならないことは、人類の根底に流れる知恵である。なかなか人にはできないことではあるが、神は、法については義しく適用することだろう。かのシートベルト着用については、半年間は警告にとどめるとしている。だが、ベルトを着用していれば死んでいなかったはずだ、と考えられる事故について先日報道されていたし、多くの死亡事故において、そのことは指摘されることが可能であろうと思われる。こうなると、子どもが嫌がるから締めないんです、などというのは論外だと考えざるをえない。子どもに携帯電話を与えることに問題がある、と政府は言い始めているが、そんなことは当たり前である。運転免許のない者に車を買い与える親がいるだろうか。もちろん、酒と同じで、大人であるからちゃんと対応できる、というものでもない。年齢や身長などで制限を設けるのも、しょせん便宜上のことであるに過ぎない。法の適用は、それほどに難しいために、人は専門家を世に送り出して委ねてきた。裁判員制度は、市井の野球ファンに、プロ野球の監督をさせるようなものにならないか、心配である。