法務大臣が死刑執行に印を押し続けることで
非難を浴びている。
中には、この人は人間としておかしい、という論調も多い。

刑事訴訟法 第475条
1 死刑の執行は、法務大臣の命令による。
2 前項の命令は、判決確定の日から6箇月以内にこれをしなければならない。……

6箇月以内に命令を下したという例はない。
池田小事件でさえ、一年後であり、
これが異例の早さだと報じられたこと自体が、法的ではないことになる。
ある計算では、平均7年半かかっている、ともいう。

死刑執行を命令した法務大臣は、さしあたり、
法に従おうとしているだけではないか。
大臣の人格などに言及するのは
筋が間違っている。

変えるべきは法なのであって、
大臣が歪んでいるのではない。
印を押さないとあれば、
それは法を犯していることになるのだ。裁判の判決は、えてして庶民の感情に合わないという。それは、人情で裁判をしているのではなくて、あくまでも法に照合してどの法が適用できるのか、が焦点だからだという。裁判員制度に混乱が起こるのは、必定である。大岡裁きや判官贔屓を喜ぶ日本人に、法の論理は徹底できない。「原則として」というふうに、原則に例外があるのが当然と考える日本人には、原則という言葉の厳密性が認識されておらず、法の論理を貫くことはできない。法の論理を貫くのが是か非かとも言われるが、論理を貫かないのであれば、それは法ではない。私たちは、法の整備を急がなければならない。そのために、国会議員がいるのであって、議員は、地元の票を集めるために人気を釣るような暇は、ないのだ。法務大臣が法に従っていることで、法務大臣の人間性を非難する声があるという事実に、すでに、裁判員制度の崩落が現れているように思う。私はここで、死刑制度の是非を示しているわけではない。誤解のないように申し添えておく。そこには今、立ち入っていない。法とは何か、という点だけである。さて、山口県光市の事件の判決は私も関心をもって聞いていた。死刑判決について、あるいはマスコミの問題なども含めて、いろいろ傍から述べることもできようが、事件そのものについては、控えたいと思う。ただ、被害者家族の方の姿勢には感銘を受けた。死刑制度に賛成か反対かなどという次元ではなく、死刑制度について、あるいは死刑制度などなくなる社会にしていくにはどうすればよいか、議論していく言論が大切である、というその姿勢は、その通りだと感じた。それほどに、制度やシステムのことまでをも被害者側が考えている。学校をよくしようという思いで意見を言い、企業をよくしようという思いでクレームをつける私だ。しかし、企業はその後対応していこうとするものが殆どだが、学校は、だめであった。ここに、教育の問題がある。教育は、大人の側の制度として、死に瀕している。大人が、未来を潰している。かの事件の被害者の家族は、一部の報道ではクリスチャンになったという加害者に対して、「悔い改めなければならない」と言った。クリスチャンは、しばしば世に、悔い改めよ、とイエスの真似をして言う。しかし、悔い改めなければならないのは、まず自分の側であることに、気づいていないことが多い。それが、福音書に描かれたファリサイ派であったのだが。