どうにも数学が理解できない。
授業に出なければいけないと言われて、出席した。
しかし、やっぱり分からない。
殆ど、何を喋っているのかも分からない。
いや、単語の意味は分かる。
その言葉のつながりが、
頭の中で橋をつくらないのだ。

「数学」というところは、
自由に別の言葉に換えて戴きたい。
「英語」でもいいし、「経済」でもいい。

このような授業に出なければならないというのは、
苦痛以外の何ものでもない。

「いや、授業に出さえすれば分かるから」
話す教師のほうは、そのように言いがちだ。
なんとしても、自分の説明で分からせる自信があるからだ。
しかし、聞く方はたまらない。よほど、知りたいという熱意があったり、将来の目標がはっきりしている生徒なら別なのだが、それほどでもなくて授業に参加している生徒にとっては、分からない世界に座っていろと言われると、自分の居場所ではないという思いで頭がいっぱいになりそうだ。また、ほんとうは、話すほうが、分かっていないことが少なくない。聞く側に、何が必要であるかを。そしてえてして、話すほうが実はよく理解していないがゆえに、その話が分かりづらい、ということがある。たとえば、英語で、どうして三単現でsを付けるのか。どうして彼も彼女も、犬も鉛筆も、複数になると同じ語なのか。どうして、be動詞の疑問文は主語と動詞の順が逆になるのに、他の動詞の疑問文は逆にならず、doやdoesが先立つのか。これらは、中学一年生の授業で扱う。で、英語教師のどれほどが、その疑問に応えてくれるのか。その疑問の答えを授業で予め話しているのか。さて、ここで言いたかったのが、数学や英語のことではなかったことは、賢明な読者はお気づきのことだと思う。教会に人を誘うということが、はたしてつねに適切なことであると言えるのかどうか、考えてみたかったのだ。