学校や幼稚園からの文書は、
それなりに堅い。
きちんとしているものと思われるかもしれないが、
概して、文章はまずい。
いや、レベル差が大きい、としておこうか。

何が言いたいのか、分からない文章が多い。
もちろん、その腹は大抵の場合察することができる。
しかし、純粋に文章として見た場合、
奇妙なものがかなりある。

単純な文字や言葉の間違いもしばしば見られる。
とくに幼稚園のは、ひどい。
日付の間違いなど、ざらである。
学校にしても、昨年度のをベースにして打ち換えているので、
日付と曜日のずれることが、よくある。誰かチェックしているのか、と思うが、たぶん、していないのだろう。また、一見礼儀正しくきちんとした文書のようでありながら、呼応がおかしかったり主語と述語がねじれていたり、指示語が何をさしているのか不明瞭だったりすることもある。中にはそのために、解釈が違ってくる場合もあるから、無視できない。教育のプロが、こうなのである。生徒たちについて、書くのが下手になった、などと言っている場合ではない。教師の文章力が、確かに落ちている。ただ、私もそれは当然のことだと考えている。進学塾には、それなりに勉強をしたいという子が集まっている。それでも、彼らに作文を書かせると、いただけない。こうした生徒たちが大人になっているのであるから、一般の人々がそれほど文章で、自分の考えていることを「正しく」伝えられるようには、とうてい思えないのだ。文章を書くというのは、古来、たいへんなエリートの仕事だったはずだ。エジプトの書記は、その特技のゆえに、仕事を与えられた。それは身分云々によらず、特筆すべき才能だったのだ。今は、(エリートに限るという意味ではないが)そうした特技をもつわけではない人々が、いとも簡単に文書を、しかも公文書を記す時代である。だから、公の文書といえども、お粗末極まりないことが起こるのだ。もちろん、この私もまた、その一人である。公文書ではないが、何が言いたいのか分からないような文章を公衆の面前に晒している。いったい、幾度、意図しない誤解を招いて人を怒らせたことか。自分の考えていることを、「正しく」書く力というものは、社会でたいへん役立つことなのだ、と齋藤孝氏をはじめ、多くの人が力説している。それだけに、書く力は、すべての人に備わっているわけではない。だから逆に考えてみよう。学校の文書というものが、正確に書かれているなどとあまり信頼しないがよい。しばしばそれは政治的文書であるから、建前を言って自分は義務を果たしたつもりになっているだけである。言葉に、信頼をなくさせるようにしているのが、残念ながら、公教育の常識なのである。