一年前の飲酒運転事故は、たしかに衝撃的だった。

飲酒運転は本当にいけないことなのだ、と
世間の良心ある人々に、痛切に響いた。
それが、もしも、他人事として捉えるに過ぎないのであれば、
何の意味もなかったことだろう。
自分も飲酒運転を許してきたところがある、
そう感じた人が、こうした悲劇を亡くそうとする側のシーソーに乗り始めたのだ。

そうは言っても、それがなくなるわけではない。
昨日発覚した、その福岡市職員による飲酒運転事故の場合でも、
気がついたら病院のベッドの上だったと口にしているという。
どこまで本当かは知らないが、
殆ど無意識的に、酔っぱらった末にハンドルを握っているとしたら、
なおさらそれは罪を軽くすることはできないものと思われる。
当人は、わざとしたのではない、と逃れるためにそう言っていたとしても。

市長の心中もいかばかりかと思われる。
市長の顔に泥を塗るようなことをした職員は、
懲戒免職ということになるのだろうが、
一年前には、そうした処罰さえ確定していなかった。
事故の遺族からすれば、
飲酒運転事故は死刑に値すると思えたにしても、である。

今回も、一年前の被害者は、
コメントは差し控える、と言っているらしい。
コメントは、私たち他人に委ねる、ということでもよいのかもしれない。
誰もが、憤っているだろうから、
敢えてもう言わないのだ。

呆れる、というのはそういうことかもしれないし、
悲しみの中にあれば、そうした怒りすら超越しているのかもしれない。

犠牲になった3人の子どもたちのために、
地蔵が置かれたというニュースがあった。
私は、その地蔵を拝むことはない。だが、
その真心については、何も否定するつもりはない。
人々の願いがこめられていると思えば、
それは一つの象徴となるのであろうから。

あきれ果てることは、世の中にいくらもある。
ままならないのが、世というものだろう。
悪いことは悪いこととして、線を引くことができるのであれば、
それは対策の立てようがあるかもしれない。

問題は、それが悪いことだという自覚がない場合である。
まるで善いことをしているかのように確信犯的に振る舞われたら、
どうしようもない。
悪いことを、善いことだと宣伝することを、詐称あるいは詐欺という。
これもまた、世のどこにも隠れていそうなことである。

ところで、
飲酒運転が問題ならば、
携帯運転も問題であろう。
運転中のタバコも殆ど同様である。

死亡事故も起きているが、
死亡事故の背後に、何百という小さな事故があるはずだ。
しかも、
事故を起こしていないがゆえに、飲酒運転をしてもまあ大丈夫だった――
その思いが、「このくらい大丈夫だろう」を呼び起こしていることを思うと、
事故を起こしていなくても、飲酒運転をした、というそのことが、
とてつもない悪辣なことに見えてきてしまうのだが、どうだろう。