英語には苦労した。
高校に入ったとき、中学とのあまりのギャップに、ついていけなくなった。
中学三年間で覚えた単語を、一年間で覚えなければならない。
しかも、文法のテストの、実に細かいこと。

今は、よい参考書がある。
これらがあれば、少しは目が開かれていたかも、とも思うが、
しょせんそれは本人の問題でしかない。
できる者も多かったからである。

聖書の英語なら、いくらかは必要に応じて今見ているが、
英語の本を最初から読むというのは、
いわば逃げ場のない闘いであり、それをしなければ、英語力はつくものではない。
しかし、学習のために、興味のない話に時間をつかうほど、人生に余裕があるわけではない。

私は、信仰書を手に取った。
語彙が限られている。ポピュラーでない語彙が度々使われる。調べれば、意味は分かる。
結局、同じ本であれば、使われる語彙も限られてくるのだ。
だんだん、辞書を開く頻度が少なくなっていく。

妙に日本語訳などしなくても、
最初から読む順序に従って、言わんとしていることが頭に入っていく。
慣れてくるというのは、こういうことなのか、とも感じた。

大人の方々は、自分に興味のある分野の本を読むことを目標にすべきだ。
学生のうちは、様々な訓練を受けなければならない。
しかし、後には、まさに自分の関心に応じて、世界を広げるべきなのだ。
あるいは、自分の中へと深まっていくべきなのだ。

それにしても、英語の信仰書とは、
なんとシンプルで、ぐいぐいと迫ってくるものなのだろう。
日本語では、味わえない醍醐味がそこにある。

日本の教会は、まだ人の顔ばかり見ているような気がしてならない。
教会は、主イエスを見上げていればよいのだ。
少なくとも、英語の信仰書からは、人間の顔というものが、
まるで感じられないのだ。

そのうち、英語の説教を聞いても
理解できるようになりたいとも思うようになった。