ケータイ操作をしながら歩く。
自分ではまわりが見えているつもりなのだが、
逆の立場から見る人はお分かりの通り、
全く見えていないのが事実だ。

まわりの空気が読めないし、自分の危険にも気づいていない。
これくらいできる、と自分では思っている。
これまで事故などに出会わなかった、と。

だが、この人がいかに周りに迷惑をかけていたか、
当の本人だけが知ることがない。

これくらいはできる。
車のエアコン操作やラジオの操作。
運転中にそんなことをするのは、
ごく普通のことのように思われる。

だが、以前見た新聞の投書を忘れられない。
そういう操作をするのに、
免許をとった息子が、車を留めて、あるいは
止まったときにしか絶対にしようとしない。
その姿を見て母親が、
教習所の先生がよいことを教えてくれた、と感謝していたのだ。

それは極端であることのように聞こえるかもしれない。
運転中にそれくらいの操作をするのが、
悪いことだとは思えない。
しかし、このくらい、という気持ちが、
ちょっとくらい、と変わっていき、
その延長上に、飲酒運転があったのも本当である。

線引きが、できなくなるのである。
人間は、線引きができないのである。

ケータイも、歩きながらでも大丈夫と嗤う。
すでに踏切で死んだという事故も聞いたことがあるし、
少なくとも周りへの迷惑については
数知れず存在するはずだ。
私も今日、
ケータイ片手の自転車に轢かれそうになった。

線引きというのが、最近とみになくなっているように感じる。
それを戦前のように、締め付けにより引かせる、というのには、
賛成できないけれども。