24日には、燭火礼拝の間だけ
仕事を空けてもらった。
それからまた、職場に戻る。

帰宅したのは10時頃。
クリスマスの夜である。
ユダヤでは、夕方から一日が始まる勘定なので、
クリスマスイブというのは、前夜というわけではない。
「その日」が始まっていたのである。

その帰宅時、商店街の入口に、
なんと門松が飾ってあった。
道の両側に、尖った切り方をされた門松が、
まだ竹のにおいがするかのように、そこにあった。

クリスマスがもう終わったかのようだ。
いや、商店街の人にしてみれば、
この門松を見る明日の朝の人々に、
なんとしても正月用品を買ってもらわなければならない。

日本人は古いものを守る伝統がある、
あるいは伝統を守るべきだ、などと言う人がいる。
古いものを本当に大切にしているのだろうか。
けっこう新しもの好きなのではないだろうか。

京都は、そういう土地柄である。
保守的だと思いこんでいる人がいるかもしれないが、
日本で革新政党を育てたのは京都である。
ジョークか実話か、こういうのがある。
「おばあちゃん、どこの政党に投票しましたか?」
――うちなんか、保守やから、共産党ですわ。

博多っ子も、新しもの好きである。
だからまた、飽きっぽいという点もある。

100年後の完成を想定した、建築物がヨーロッパにあるという。
経済的にも環境問題的にも、一世紀先のイメージを掴んで
考えていくというのが一般的であるようにも見える。

現在完了という文法時制があるが、日本人には掴みにくいとされている。
それは、
「過去のあるときをたとえば写真に撮って、
いまここに持ってきて見比べている様子」を伝えるのが原義なのだという。
過去を今と比較するのである。

日本だと、そういう語の用法がまずないと言える。
過去と現在のつながりをつけるべきではない、と
言い張っている人々が少なくないせいだろうか。
過去と現在との関係など、水に流したいのではないか、と思える。

商店街入口の門松を見て、
そんなことが頭を過ぎった。
クリスマスは、むしろ「これから」が本番であるのに