北九州の女子高校生の自殺を巡り、
その学校の代表者が
「学校にいじめはありません!」と
断言していた姿が、先日報道されていた。

タイミングも悪かったかもしれない。
行く道を塞ぐかのようにして、
報道陣が、「いじめはあったんですか?」と声をかけたのだ。
しかし、その高校の代表者は、
いかに報道者が鬱陶しかったとしても、
口調も素振りも、私には非常に偉そうに、横柄に見えた。
人間、こういうときの態度は、案外本音である。

冷静に捉えてみよう。

「ありました」という証明は簡単である。が、
「存在しません」という証明は困難である。
数学でも科学でも、証明ということを学んでいる人には、
当然の常識である。
「いじめはありませんでした」と
幾度も強硬に叫ぶこの学校の責任者は、
教育者としてはもちろんのこと、
学問を扱うということについても、失格である。

私は、ある中学校の、とんでもない校長と教頭とを知っている。
身を張って対話をし、長期にわたって議論を尽くしたわけなので、
彼らが
偽装や不誠実そのものであり、
また教育者ではなく、ただの教育屋でしかないことを
堂々と断言できる。

私は、中学校内でのあるいじめの被害者を知っていた。
その実情も知っていた。
だが、その当事者を刺激することになってもいけないので、
私がそのいじめ事件を知らないような振りをして、
ある重要ないじめについての話し合いの中で尋ねた。
学校にいま、いじめがありますか。
すると、教頭は断言した。「ありません」
念を押したが、「ない」との一点張りだった。

繰り返すが、存在しないことの証明は、困難である。
だからこそ、スピリチュアルなんとかがまかり通るのである。
オレはなんとかの生まれ変わり、などという妄想が
どれほどの悪影響を与えようと、放置されているのである。

「いじめはない!」
偉そうに吐き捨てるその高校の代表者の映像に、
命を捨てたその女子高校生の無念さを重ねて見ていた。

命を捨てて抗議しても、このように、
煙草の煙を一吹きかけられてそれで終わりのような態度をとられるだけだ。
苦しんでいる人がいても、死ぬなと言葉をかけたい。
死ぬほど苦しいことについて、
傍観者にはそんな気持ちが分かるまい、と思われたとしても、
それでも、死ぬなと言葉をかけたい。