佐世保のスポーツクラブ「ルネサンス佐世保」における事件は、
乱射というよりも、狙いすましたということのように見える。

そして、銃社会という問題が問題視されている。
もちろん、銃による犯罪は、最近よく報道されている。
ただ、それはしばしばその道のことであり、
犯罪に銃が使われやすいという言い方は強すぎるかもしれない。

もしも銃が規制されて、
この事件の犯人が銃を手にしていなかったとしても、
何か他の道具を用いて、同様に狙ったということは、
十分に考えられる。
銃がなければありえなかった、ということもないと思うのだ。

たまたま手にしたというのも言い過ぎだが、
銃そのものが悪かったというのはもっと言い過ぎているような気がする。
他の道具を用いていれば、その道具を規制するという声が挙がるのだろうか。
怪しい者には銃は販売できない、などというならば、
その「怪しい」の基準が必要になるが、
怪しくすることなく、やがてそれを殺人に用いる者が現れるだけだろう。
猟銃もすべて禁止にしたとしても、
別の道具が殺人の道具に選ばれるだけのことではないのか。佐世保と言えば、当時小学六年生だった女の子が同級生により命を奪われる事件があった。佐世保の教会の牧師などもコメントを公開していたが、その新聞の見出しにあった「祈りの言葉も出てこない」というフレーズに私は反応した。意地悪な言い方であったかもしれない。結局、「祈り」をどう定義するか、という問題であったのだから。だから、通常の「祈りの言葉」がいかに儀式的でしかないのか、感情的なものとして捉えられているものか、暴露されたのではないか。このたびの銃の事件において、犯人はカトリック教会で自らの命を絶った。かつてそこで洗礼を受けたというが、成人してからは教会に行っていないように報道されていたかと思う。母親の心情は察するに余りある。まさに、どう祈ってよいか分からない事態だ。これをもはや理屈で捉えることは不可能である。神に叫ぶしかないのかもしれないし、それがまた祈りでもあるだろう……。だが、被害者とその関係の方々はもちろんのこと、地域の方々に対しては、それこそ、かける言葉が出てこない。社会の歪みを作っているのが自分であるかのようにも思え、つらい気持ちになる。ところで、新聞報道について一点触れておく。事件直後、14日の23:39に産経新聞が、こう報じている。タイトル【佐世保銃乱射 「外国人のようだった」との目撃情報も 】「……外国人のようだったという目撃情報もある。」その一時間余り後の15日00:49に同じ産経新聞が、こう報じた。タイトル【佐世保乱射事件 笑顔絶やさぬ倉本さん 「外国人につきまとわれていた」との情報も】「スポーツクラブの関係者によると、倉本さんは最近、外国人につきまとわれていたという情報もある。」外国人というのがどこから来たのか分からない。毎日新聞が同じ夜に「クラブ内にいた男性」の話として、「外国人のような男が入り……」と話していることが伝えられていることだろうか。しかし、こちらは少なくとも見出しには用いていない。つまり、たんなる推測の証言を推測として報じているだけなのである。だが、産経新聞は、見出しに二度も採用している。根拠のない推測を見出しに使うというのは、よほどの確信がある場合か、何らかの理由でその点を強調しようとする意図がある場合か、のどちらかであろう。ここでは、後者としか考えられない。「外国人につきまとわれていた」点については、他の報道ではついぞ言及がない。このような方向性は、この新聞社の方針とも合致する。意図的な情報操作が強く感じられてならない。まだこの点は世間では問題に挙がっていないように見受けられるが……。それゆえに、せっかくよい点を指摘しようと努力していたとしても、この新聞の方針というものを、私は信用できないのだ。