「ほんと、Aさんらしいわねぇ……」
笑い話として通用するこういう段階でいるならば、
まだ幸いなところである。

だが、そのAさんの行動の背後にある腹黒いものが
何らかの形で明らかになったとする。
そうなると、「Aさんらしい」というのが
愛嬌ではなくなってしまうものである。

それほど腹黒い悪質なものでなくともよい。
何か決定的な欠陥のようなものがはっきりしたら、
その行動は、憐れみの思いで見られるかもしれないし、
逆に厳しい批評で糾弾されるようになるかもしれない。

「Aさんらしい」というのは、
ひとつの認定されたキャラクターということであろう。
そういうキャラなのだ、と最近よく言われる、アレである。

それは、真実のAさんでなくてよい。
いやむしろ、真実のAさんであってはならない。
人々の中でキャラとして見なされた
Aさんの役割を果たしているということにほかならない。

つまり「Aさんらしい」というのは、
「私たちが認めているキャラとしてのAさん」の役割を
果たしている、という意味なのだ。

しかし、「Aさんって、実は……なのだそうよ」となると、
そのことを知った者たちにとり、Aさんはもう埒外の人となる。
キャラとしての「Aさん」の像を裏切られてしまったからだ。

あるいは、依然としてAさんの実の部分に気づかない人々は、
変わらずキャラAを喜んでいるだけに留まるであろう。
そもそも大抵の場合、そのAさん本人が
自分の真実の姿に気づかないし気づこうともしないし、
気づきかけてもそうではないと否定することしかしないのであるから、
当のAさんも、実の部分になど、気づいていないはずなのである。