しばらく前のこと。
ラジオのパーソナリティが、世のニュースを紹介した。
近隣の教会のドアに接着剤を付けたイタズラがあった、
そんなふうなものだったと思う。少し聞き逃した。
問題は、それに対する地元の牧師たちのコメントである。
「これは悪魔のしわざだ」
これに、彼は反応した。
「……悪魔は、そんなことしないでしょう」
その口達者なパーソナリティは、しみじみ言った。
「悪魔は、接着剤なんか、使わないでしょう」
「まあ、牧師さんだから、そんなふうに言いたくなるんでしょうけど」
私は、牧師の口にする言葉の意味は普通に聞ける。
クリスチャンは、当然そうだろう。
だが、この意外なパーソナリティの反応に、思いを巡らせてみた。
どうして、悪魔ではない、と端的に言えるのか。
私はすぐに思い当たった。
どうやら彼は、
悪魔というものは、
あの耳がとんがり、尻尾が矢印で、
黒装束の奴のことを指す、と思いこんでいるらしかった。
そんなマンガみたいな奴らが、
接着剤を使ってまわった、と牧師がコメントしたと彼は思い込み、
そんな者がやるなんてことを言うのはおかしい、と発言したようだった。
悪魔の姿など、見えやしない。
人の心の底に原罪と呼ぶにしても何と呼ぶにしても、
悪への傾向が存在するかぎり、いや存在するのだが、
人はいつでも悪魔の誘いに乗ってしまう。
しかも、実に巧妙に。
自分ではそれが分からないほどに、その誘いは巧妙なのである。
悪魔と呼んでもよいし、悪霊でもよいが、
それは「いかにも」のキャラクターなどではない。
悪魔など存在しない、とせせら笑う人が、
まずそれに操られているようなものだ、とよく思う。
神ではないが、神と勝負するほどの知恵者が悪魔である。
人間が、それに立ち向かえるものではない。
もちろん、神と悪魔の二元論で
説明しようなどと考えているわけでもない。
神の知恵を計り知れないのと同じように、
私たちは悪魔の思惑を知ることもできない。
こうした、基本的な聖書の考え方を、
どうしたら適切に伝えることができるのだろうか。
悪魔という言葉で、妖怪のようなものを想像し、
そこから離れることができない一般の人々に、
どうしたら……。
ラジオのパーソナリティが、世のニュースを紹介した。
近隣の教会のドアに接着剤を付けたイタズラがあった、
そんなふうなものだったと思う。少し聞き逃した。
問題は、それに対する地元の牧師たちのコメントである。
「これは悪魔のしわざだ」
これに、彼は反応した。
「……悪魔は、そんなことしないでしょう」
その口達者なパーソナリティは、しみじみ言った。
「悪魔は、接着剤なんか、使わないでしょう」
「まあ、牧師さんだから、そんなふうに言いたくなるんでしょうけど」
私は、牧師の口にする言葉の意味は普通に聞ける。
クリスチャンは、当然そうだろう。
だが、この意外なパーソナリティの反応に、思いを巡らせてみた。
どうして、悪魔ではない、と端的に言えるのか。
私はすぐに思い当たった。
どうやら彼は、
悪魔というものは、
あの耳がとんがり、尻尾が矢印で、
黒装束の奴のことを指す、と思いこんでいるらしかった。
そんなマンガみたいな奴らが、
接着剤を使ってまわった、と牧師がコメントしたと彼は思い込み、
そんな者がやるなんてことを言うのはおかしい、と発言したようだった。
悪魔の姿など、見えやしない。
人の心の底に原罪と呼ぶにしても何と呼ぶにしても、
悪への傾向が存在するかぎり、いや存在するのだが、
人はいつでも悪魔の誘いに乗ってしまう。
しかも、実に巧妙に。
自分ではそれが分からないほどに、その誘いは巧妙なのである。
悪魔と呼んでもよいし、悪霊でもよいが、
それは「いかにも」のキャラクターなどではない。
悪魔など存在しない、とせせら笑う人が、
まずそれに操られているようなものだ、とよく思う。
神ではないが、神と勝負するほどの知恵者が悪魔である。
人間が、それに立ち向かえるものではない。
もちろん、神と悪魔の二元論で
説明しようなどと考えているわけでもない。
神の知恵を計り知れないのと同じように、
私たちは悪魔の思惑を知ることもできない。
こうした、基本的な聖書の考え方を、
どうしたら適切に伝えることができるのだろうか。
悪魔という言葉で、妖怪のようなものを想像し、
そこから離れることができない一般の人々に、
どうしたら……。