時が長い、と感じるのは、
いやな目に遭っているときだと言われる。
逆に、楽しい時間は、
あっという間に過ぎる、と言われる。

自分の授業は、
しばしば、長いと感じられているわけで、
数学を楽しく伝えられていないなあと悲しむ。
数学というのは、私の場合、
ものごとの筋道をたどる営みである。
その意味では、数学を伝えなければと感じている。
だから、
とりあえず暗記させて、訳が分からなくても答えが作れたらいいのだ、という
塾の常識には、素直に従えないでいる。
生徒にとっても、
とにかく点が取れたらいいわけで、
それこそ生徒の目的でもあるわけであるのだが……。

礼拝の説教はどうだろうか。
自分の体調が悪いときばかりでなく、
自分の霊的な状態がよくないときには、
説教を長いと感じることがあるようだ。

が、必ずしも、それは自分のせいではないことも分かった。
たしかに、その語り手が長いと感じさせていることも、あるのだ。
しかし、今の教会の牧師の話は、
長い、と感じたことは一度もない。
実は、客観的に計測すれば、たいへん長いのである。
1時間以内には、まず終わらない。
しかし、長いとは全く感じない。

それは、その話が、聖書から出ているからだ。
聖書から、つまり、神からのメッセージなら、
面白くてたまらない。

逆に、長いと感じさせる以前のメッセージは、
聖書からのものではなかった。
聖書からでないということは、
単純に言えば、肉から発するものであったということだ。

長いか、短いか。
自分が物差しではないにしても、
多くの聞き手は、同意見であることが多い。
霊的なことが分かる聞き手は、どこの教会にもいるものだ。