まだ暗い朝。
キリストの復活の出来事は、
そうしたシチュエーションから語られる。
(ヨハネ伝はそうだが、マルコ伝は日が昇っている。)

しかし、その暗い時に教会にいることは少ない。
早天祈祷のある教会だと、
そこに同行することはできるだろうから、
私も一度はあったと思う。

それが思いもかけず、昨日その恵みに与った。
私は、暗いうちに家を出て、教会に向かった。
教会に着くころには、光は射していた。
それでも、復活の朝を語るには相応しかった。
恐怖心しか抱いて帰れなかったその時の女性たちに比べて、
私はなんと期待や希望に包まれていることよ。

イースター礼拝だというのに、仕事なのである。
それで、出勤前に、
教会の早天礼拝に出席することにした。
前日もへとへとで夜遅く帰宅していたので、
朝早く起きるのはしんどかったが、
礼拝に出たい、の一心だった。

驚いた。
早朝のその礼拝に、もう何人も教会員が集まっている。
結局、朝の礼拝の三分の一の人数が現れた。
この教会の力強さを覚えた。

いや、力強さというのは、人数のことでもないし、
早朝から来る熱意のことでもない。
その礼拝で、たしかに聖書の言葉が語られることである。
聖書は何を言っているか。
誰それの講演会などではない、聖書の説き明かし。
だからこそ、それは神が語る場となりうる。

私はうれしかった。
そのうえ、最後の祈りの奉仕まで依頼された。
私は、出勤の時刻を気にして、その祈りの時刻を尋ねた。
後で思うに、これは信仰のないことだった。
――それでも、私の祈りで力づけられたという声を
ある方からうかがったのは、恥ずかしいなりに、感謝なことだった。
もっとあのことも合わせて祈りたかった、と後悔もしたが、
主はご存じであろう。
祈りは、人に聞かせるためのものではないのだ。

私は、一日の力を戴いた。
元気を――否、いのちを受けた。
それで、そこから夜10時までの仕事であっても、
何にも負けない喜びがあった。

教会の皆さんのパワーはさらにすごい。
教会で一緒に朝食をとり、やがてまた礼拝に臨むのだ。
午後には、讃美の集いがあり、
夕拝まで出席して帰るつもりらしい。

こんなイースターが、あるものなんだ。