教育の戦後をおおまかに見る。
戦前教育に対する反動であるかのような戦後教育、
それは高度経済成長の背後で進められた。
戦後世代が親になろうかというころ、
日本は経済的に頂点を極め、
詰め込み教育が歪みを生んだと言われた。
そこで、ゆとり教育が合い言葉となった。
すると、今度は学力低下が問題視された。
こうして、ゆとり教育路線が修正された。
これがどこへ行くのか、まだ分からない。

たんに教育の理念という問題ではなく、
その時代の社会の要請が
教育の優先課題となってきているために、
教育はひとつには決まらないのである。
つまり、教育的にはどうだというのは根底的な理由にはならず、
必ず、社会的にはという背景がそこに隠されていることになる。

今、格差社会や高齢化社会が睨まれている。
すでに経済的な危機が押し寄せており、
経済システムの改変もありうることになってきた。

その中で、ゆとり教育から詰め込みへの回帰が懸念されている。
学ぶ知識ではなく、学ぶ意欲が大切だ、と説くのである。
職場から新入社員へのメッセージなどでも、
元来の知識や学歴よりも、やる気が大切だとしきりに告げられる。

そうだろうか。
意欲があるなら、やる気があるなら、
何でもできるのだろうか。
人の適性を安易に単純な制度で決めてかかるというのは、
たしかに例外があり、
資格などなくても才覚のある人が現にいるのは間違いない。
しかしながら、概ね、資格や適合条件は適切である。

計算のできない人が算数や数学の先生にどんどんなると、
教育現場は混乱する。
漢字を読めない人がアナウンサーにどんどんなると、
放送が訳の分からない混乱に陥る。
やる気があれば何でもやってよいことにはならない。

誤解がないように対照しておこう。
個人として、やる気があれば、何にでも挑戦はしてよいのだ。
だが、組織としては個人に対して、
やる気があるがゆえに、何でもさせてはならないのだ。

聖書を、少なくとも救いに関して知ることがないままの人を
牧師や伝道師にすることも、本来許されないことなのだろう。
それは現場を混乱させる。

個人の意欲を尊重することは、大切である。
それを安易に蔑むようなことは、してはならない。
だが、意欲だけで世の中を動かしてよい、とするのも、
極論である。

「考える力」は、個々に能力的な差があるとすべきだろう。
だが、何らかの形で「考える」ことはどうしても必要である。
一部の「頭のよい」者たちに操られることがないためにも。

意欲というものが、この「考える」ことに結びつくならば、
大いに意欲は伸ばすべきである。
しかし、意欲というものが、
単純短絡的な目的のためにのみ用いられるようになりがちであるなら、
まさに教育する側が、「考え」なければならないであろう。