創世記のアダムのときから、
人は、責任を誰かに押しつけてしまいがちだという。
私たちが主の祈りによって祈るとき、
みこころが成るように、というのは、
この私自身が変えられていくことを願う祈りへと熟してゆくものだ。
依然として誰かに責任をなすりつけていくのとは、
全然違う方向へ進むための眼差しがそれであろう。
そういう真実のメッセージを語る牧師が、
それに続くフレーズで、自分の英語のことを話題に出した。
方言の影響などのことを持ち出して、
あれがなかったら、もっと英語がうまくなっていたはず……と口にした。おや、面白いことを言うぞ。私たちは期待した。自分で落とすつもりだな。「……などと、すぐに誰かほかのものに責任を転嫁するのです」と。関西系なら、きっとそうするだろう。が、そのオチがなく、説教は次の展開に進んでいった。これも人柄なのだろう。つねに自分に引き寄せて、聖書講解をする牧師である。ちょっとお茶目な部分を見て、心の中でだが、クスクス笑ってしまった。もしかすると、そのオチは、聞く者が自分の心の中で落とすものだったのかもしれないのである。そこまで読み込んでいたのなら、それはそれで見事な芸である。ところで、人のせいにするというのも、自分の非を認識しているからであろう。人のせいにすらできないのは、自分の非を知らない不幸な状態である場合もある。こうなると、もはやクスクスさえ笑えなくなるだろう。
人は、責任を誰かに押しつけてしまいがちだという。
私たちが主の祈りによって祈るとき、
みこころが成るように、というのは、
この私自身が変えられていくことを願う祈りへと熟してゆくものだ。
依然として誰かに責任をなすりつけていくのとは、
全然違う方向へ進むための眼差しがそれであろう。
そういう真実のメッセージを語る牧師が、
それに続くフレーズで、自分の英語のことを話題に出した。
方言の影響などのことを持ち出して、
あれがなかったら、もっと英語がうまくなっていたはず……と口にした。おや、面白いことを言うぞ。私たちは期待した。自分で落とすつもりだな。「……などと、すぐに誰かほかのものに責任を転嫁するのです」と。関西系なら、きっとそうするだろう。が、そのオチがなく、説教は次の展開に進んでいった。これも人柄なのだろう。つねに自分に引き寄せて、聖書講解をする牧師である。ちょっとお茶目な部分を見て、心の中でだが、クスクス笑ってしまった。もしかすると、そのオチは、聞く者が自分の心の中で落とすものだったのかもしれないのである。そこまで読み込んでいたのなら、それはそれで見事な芸である。ところで、人のせいにするというのも、自分の非を認識しているからであろう。人のせいにすらできないのは、自分の非を知らない不幸な状態である場合もある。こうなると、もはやクスクスさえ笑えなくなるだろう。