聖書から外れる教会を見たことがある。

彼らは、必ず聖書を引用する。
聖書はこのように語る、と声を大にして言う。
聖書の権威を利用するためだ。

しかし、聖書に通じている人は、
気がついてしかるべきである。
その聖書解釈は、異様であることに。
まるで、自分たちの言いたいことを根拠づけるために、
聖書を利用しているのだということが、
見る人が見れば分かる。
聖書本来の声とは全然違った意味に、
聖書の言葉が流れていく。
また、聖書の歴史上確認された事柄とも、矛盾することを平気で言う。

ただ、普通は、なかなか気がつかない。
気がつかないように、仕向けているからだ。
気がついても、抜け出す勇気は、なかなかもてないものだ。

自分たちとしても、
聖書に従っている、と確信犯であるところが、さらに怖い。
良心の呵責を感じないがために、
如何に聖書から外れていても、
自分こそ正しいと強気になる。

それから、外れる教会は、
必ず批判を禁じるようにする。
自分たちへ批判することは、悪なのだ、という意識を
人々に植え付けようとする。
自分たちは裁かれない前提を必ずつくる。

また、必ず世の実例を証拠として示す。
世の中でこんなふうに言われているとか、
こんな事件が起きているとか。

自分たちこそ、弱い者の味方だ、と
宣伝するのも、特徴である。

そうして、
自分たちは迫害されている、というふうに訴える。
何も悪いことはしていないのに、
非難を受けるとか、妨害に遭う、とか。

人々が、味方になろうと思いやすい手段を
すべてとるのである。

人間のすることは、
昔から何にも変わっていないものだ。