教会の、「特伝」のための委員会がもめているらしい。
だが、その混乱でもまた、
これまでにも十分予想されていたことが、
また明らかに証拠立てられてきたようである。
つまり、主だった数人が、それぞれ違う方向を向いているということである。
もとより、その方向ということについて言えば、
元来の教会員の皆さんたちは、さして違うことがない。
信仰により一つである人々である。
見かけが多少違っても、
互いに理解し合える範囲であり、
心の底は分かり合えるという確信がある。
問題は、そうでない複数のリーダーである。
今の教会に、人をぜひ誘いたいという魅力がないのは、
私や信徒の主立った人たちの共通感覚では、
彼らのもたらすところが大きい。
それでも、信徒たちは、自分たちに力がない、
信仰が足りなかった、と自分のことを責める。
柔和と謙遜は、こういうところに輝いている。
私はかつて、聖書的にどうしても納得のいかない集団にいた。
私が聖書に聞けば聞くほど、おかしいとしか思えなくなるのだ。
しかし、ここに自分を置かれたのは、神であるから、
自分の感情でその教会を出ようという気持ちは起こらなかった。
きっと、必要があればその道が与えられるのだから、と。
そのうち、
自分の教会に、人を「どうぞ」と誘えないことに気がついた。
すると、時がきた。
自分の教会に、人を「どうぞ」と誘える教会、誘いたい教会に導かれた。
もちろん、全くの偶然のように見える、不思議な出来事がそこにはあったのだ。
私の計画など、何一つそこには含まれていなかった。
そのころの様子に、少し似ている。
今私がこの教会に留まっているのは、
ほとんど49対51の力で、
出て行くほうの力が弱いからだ。限界に近い。
しかし、これ以上、人を呼べない矛盾が続くと、
49が51になるかもしれない、と心配している。
その時には、何かまた天よりの介入がある。
なければ、主が選ばれたところで働くのがみこころであるだろう。
私はこの教会に元からいる人々に愛されてきたし、
私もとても愛している。
その愛が、49で留まらせているのだろうと思う。
だが、神はどうなさるか、そればかりは、
人間の感情では、分からない。
少なくとも、どういう立場で、どういう原理で、
私たちは「特伝」なるものを開こうとするのか、
こうした原理的な問いかけから
もう一度始めて戴きたい。
しょせん向いている方向がばらばらの中で、
小手先の思いつき理論で対立などしていては、
悲惨な結果しか待っていないからだ。
低次元の議論に明け暮れる。
いや、それはもはや議論とも呼べない。
子どものケンカに等しいような。
低空飛行もここまでくれば、観客すらしらけてしまう。
マンガにもならない。
議論は、人の言葉である。
人の言葉が、教会の中心部で飛び交うというのは、
どうかすると、教会の命に関わる。
人間の臭いがぷんぷん漂っていることに、
信徒の皆さんは気づいているのだが、
気づかないでやっている当人は、滑稽というより哀れである。
可哀想に、と、心ある人々からも同情されている。
25年前の時代にしか通用しないような
チラシや伝道方法を独善的に主張する人に限って、
自分は正しい、偉い、と誇っている。
神学校に少しばかり通えば、一般信徒より偉くなるのだそうだ。
(どうしてそういう固執が起こるのか、朧気ながらだんだん見えてきた)
この人をぜひ、と強行して招いたリーダーも、
そろそろ目が覚めているかもしれない。
自分のしでかした、とんでもないことに。
だが、やはり依然として目など覚めないでいるのかもしれない。
クリスチャンは、謝ることをしなくてよい特権をもつわけではないのだ。
教会の柱を無邪気にぐらつかせてばかりでいる自覚を、
少しはもってもらいたいが、多分無理なのだろう。
それにこだわると、私も人を審くようなことになりかねない。
いや、それは十分審いているではないか、というご意見の方も
いらっしゃるかもしれない。それはありがたく受け止めたい。
言わなくて済むものなら、言わなくてもいいことでは、あるだろう。
だがなにもかもが審くことであるなら、パウロほど多くの人を審いた人はいない。
然りは然り、否は否。
上よりのものでないものを、褒め称えることはできない。
曲がっているものについて、真っ直ぐです、と言うことはできない。
もちろん、自分の目の中の材木に気がつかず、
人のおがくずを取ろうと言い張るつもりもない。
私は私の使命をもって、否は否、それは福音でない、
救われた人間のすることではない、と、淡々と述べるだけだ。
基準は、つねに聖書にある。
だが、このことについては今はこれ以上触れないことにする。
信仰と愛には、希望がセットになっているからである。
(つづく)
だが、その混乱でもまた、
これまでにも十分予想されていたことが、
また明らかに証拠立てられてきたようである。
つまり、主だった数人が、それぞれ違う方向を向いているということである。
もとより、その方向ということについて言えば、
元来の教会員の皆さんたちは、さして違うことがない。
信仰により一つである人々である。
見かけが多少違っても、
互いに理解し合える範囲であり、
心の底は分かり合えるという確信がある。
問題は、そうでない複数のリーダーである。
今の教会に、人をぜひ誘いたいという魅力がないのは、
私や信徒の主立った人たちの共通感覚では、
彼らのもたらすところが大きい。
それでも、信徒たちは、自分たちに力がない、
信仰が足りなかった、と自分のことを責める。
柔和と謙遜は、こういうところに輝いている。
私はかつて、聖書的にどうしても納得のいかない集団にいた。
私が聖書に聞けば聞くほど、おかしいとしか思えなくなるのだ。
しかし、ここに自分を置かれたのは、神であるから、
自分の感情でその教会を出ようという気持ちは起こらなかった。
きっと、必要があればその道が与えられるのだから、と。
そのうち、
自分の教会に、人を「どうぞ」と誘えないことに気がついた。
すると、時がきた。
自分の教会に、人を「どうぞ」と誘える教会、誘いたい教会に導かれた。
もちろん、全くの偶然のように見える、不思議な出来事がそこにはあったのだ。
私の計画など、何一つそこには含まれていなかった。
そのころの様子に、少し似ている。
今私がこの教会に留まっているのは、
ほとんど49対51の力で、
出て行くほうの力が弱いからだ。限界に近い。
しかし、これ以上、人を呼べない矛盾が続くと、
49が51になるかもしれない、と心配している。
その時には、何かまた天よりの介入がある。
なければ、主が選ばれたところで働くのがみこころであるだろう。
私はこの教会に元からいる人々に愛されてきたし、
私もとても愛している。
その愛が、49で留まらせているのだろうと思う。
だが、神はどうなさるか、そればかりは、
人間の感情では、分からない。
少なくとも、どういう立場で、どういう原理で、
私たちは「特伝」なるものを開こうとするのか、
こうした原理的な問いかけから
もう一度始めて戴きたい。
しょせん向いている方向がばらばらの中で、
小手先の思いつき理論で対立などしていては、
悲惨な結果しか待っていないからだ。
低次元の議論に明け暮れる。
いや、それはもはや議論とも呼べない。
子どものケンカに等しいような。
低空飛行もここまでくれば、観客すらしらけてしまう。
マンガにもならない。
議論は、人の言葉である。
人の言葉が、教会の中心部で飛び交うというのは、
どうかすると、教会の命に関わる。
人間の臭いがぷんぷん漂っていることに、
信徒の皆さんは気づいているのだが、
気づかないでやっている当人は、滑稽というより哀れである。
可哀想に、と、心ある人々からも同情されている。
25年前の時代にしか通用しないような
チラシや伝道方法を独善的に主張する人に限って、
自分は正しい、偉い、と誇っている。
神学校に少しばかり通えば、一般信徒より偉くなるのだそうだ。
(どうしてそういう固執が起こるのか、朧気ながらだんだん見えてきた)
この人をぜひ、と強行して招いたリーダーも、
そろそろ目が覚めているかもしれない。
自分のしでかした、とんでもないことに。
だが、やはり依然として目など覚めないでいるのかもしれない。
クリスチャンは、謝ることをしなくてよい特権をもつわけではないのだ。
教会の柱を無邪気にぐらつかせてばかりでいる自覚を、
少しはもってもらいたいが、多分無理なのだろう。
それにこだわると、私も人を審くようなことになりかねない。
いや、それは十分審いているではないか、というご意見の方も
いらっしゃるかもしれない。それはありがたく受け止めたい。
言わなくて済むものなら、言わなくてもいいことでは、あるだろう。
だがなにもかもが審くことであるなら、パウロほど多くの人を審いた人はいない。
然りは然り、否は否。
上よりのものでないものを、褒め称えることはできない。
曲がっているものについて、真っ直ぐです、と言うことはできない。
もちろん、自分の目の中の材木に気がつかず、
人のおがくずを取ろうと言い張るつもりもない。
私は私の使命をもって、否は否、それは福音でない、
救われた人間のすることではない、と、淡々と述べるだけだ。
基準は、つねに聖書にある。
だが、このことについては今はこれ以上触れないことにする。
信仰と愛には、希望がセットになっているからである。
(つづく)